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・ニュース164号(2012年3月30日)

    被災地での歴史資料レスキュー続く

今回は3月後半に各地で実施した被災歴史資料の所在調査とレスキューの報告です。


石巻市立相川小学校でのレスキュー

 ■石巻市立相川小学校でのレスキュー
 3月23日、石巻市立相川小学校(石巻市北上町)で、同校の学校文書のレスキューを実施しました。

 同校の書類は、石巻市教育委員会の依頼により、昨年8月末に石巻市の他校の書類と合わせて応急処置を実施しました。相川小学校分は31冊の応急処置を行いました。その後、3月10日に、被災した校舎にまだ多くの書類が残されているという情報が事務局に寄せられました。そこで同校関係者の許可を得て対応したものです。

 宮城資料ネット事務局天野真志と会員1名、宮城学院女子大学1名の3名で、段ボール37箱分の文書を仙台市の事務局に搬出しました。早速翌日からクリーニング作業に取りかかっています。

石巻市雄勝町・T家文書レスキュー

 23日午前9時、相川小学校文書のレスキュー隊が仙台から出発した直後、石巻市教育委員会の佐々木淳さんから石巻市雄勝町T家文書のレスキュー依頼がありました。佐々木さんが現地で300点ほどの近世文書を保全したとのことで、すぐに仙台から相川小学校で活動中の事務局スタッフに電話連絡を取り、この文書も仙台へ搬出することにしました。相川小学校での活動を終えた後、石巻文化センターでつづらや箱などに入った文書を引き取り、仙台に搬出しました。

 震災後一年以上が過ぎているため、文書に中には劣化が進んでいるものもあります。そこで、ひとまず事務局の冷凍庫に保管して経過を観察しています。
 (絵:冷凍保管されたT家文書)

栗原市での被災資料調査

 3月26日には、栗原市Y家での被災歴史資料調査を、事務局ボランティアの後藤三夫さんが実施しました。同家での活動は、後藤さんが会員である宮城県美術刀剣保存協会が実施している「被災刀剣類レスキュー事業」が1月末に栗原市で相談会を行った際、所蔵者から相談があったことがきっかけです。今回は同家所蔵の歴史資料について概要を確認しました。これまで未確認の古文書が多く、4月以降本格的な保全活動を実施する予定です。

 種類の異なる歴史資料・文化財の被災対応を行う組織同士で情報が共有された結果、新たな歴史資料の所在確認につながりました。


女川町での被災古文書レスキュー

 3月28日には、女川町教育委員会生涯学習課からの依頼で、同町役場倉庫から発見された近世文書の被災対応活動を実施しました。佐藤と天野が、女川町総合体育館に仮移転中の担当課を訪問し、紙袋一つ分の文書の状態を確認しました。固着は進んでいましたがカビの発生はごく初期のもので、これらについても仙台市に搬出して応急処置を進めることにしました。

 震災発生から一年を経過して、未だに津波被災地で新たな被災史料が確認されるのは、貴重な歴史資料が消滅を免れたという喜びとともに、正直驚きも感じています。状況がある程度は落ち着きつつある中で、改めて史料の存在に意識が向きつつあるということかもしれません。一方、内陸部では公費での家屋解体が比較的遅れており、今後の進み具合によっては、解体建物からの搬出など緊急対応も増えそうです。

 新年度も、引き続き活動への支援をよろしくお願いいたします。(佐藤大介・記)




 163号(2012年3月28日)

石巻文化センター図書資料のレスキュー
(第2次


 3月17・18日の両日、宮城県石巻市の石巻文化センターにて、同館所蔵の図書資料のレスキューを実施しました。参加者は宮城資料ネット募集のボランティアが19名、国文学研究資料館の渡辺浩一さん、中央大学の山崎圭さんを中心とする一橋大学と中央大学の学生有志チーム8名でした。

 昨年12月18・19日の活動に続き、津波で被災した郷土関係の図書や、発掘報告書など1000冊ほどの中から、当面応急処置が可能なものを選び簡易クリーニングを行いました。同時に、学生有志チームが救出した図書を目録化していきました。

 12月の段階である程度状態のよいものが選ばれており、今回は状態の悪いものが多くなりました。応急処置が困難だと判断したものは廃棄処分となります。その中には、宮城資料ネットの関係者が執筆や編さんに関わった書籍もあり、複雑な心境でした。

 多くの参加者を得て、今回の活動で被災図書全ての選別を終えました。一方、今回対象とした図書だけでも、その半数が廃棄となりました。

 保管場所の問題もあり、石巻市では今すぐ代わりの図書を受け入れられる状況にないそうです。一方、将来の石巻文化センター復興に際しては、図書資料を復元することも大きな課題となります。関係各位の継続的な支援をお願いする次第です。
(佐藤大介・記)



  


  ニュース162号(2012年3月8日)

        宮城県知事より感謝状 
        司馬江漢の未確認作品を確認


宮城資料ネット事務局佐藤大介です。東日本大震災の発生からまもなく一年がたちます。この間の歴史資料レスキューに対するご支援に、改めて御礼申し上げます。

宮城県知事より感謝状を授与
 本年2月付で、本法人に対し村井嘉浩宮城県知事より、東日本大震災での被災地支援活動への感謝状が授与されました。

この間の活動にご支援とご協力をいただいている皆様のご尽力のたまものであると存じます。あらためて御礼申し上げます。

司馬江漢の未確認作品を確認・仙台市博物館へ寄贈
 1月29日に実施した石巻市での歴史資料レスキューで保全した史料の中に、江戸時代の画家・司馬江漢(1747―1818)の、これまで未確認だった油絵2点が含まれていることが確認されました。相州江ノ島(神奈川県藤沢市)から富士山を遠望した図(写真左)、および金沢能見台(横浜市)からの遠望(同右)です。絵画は所有者の勝又紳一郎さんより仙台市博物館に寄贈されました。この秋に開催される仙台市博物館の特別展で公開を予定しているとのことです。

それまで未調査であった地元の歴史資料の保全を行うと、時として今回のような「文化財」級の史料に巡り会うことがあります。震災前に私たちが保全活動を行った白石市の仙台藩重臣遠藤家文書に、未発見の中世文書が含まれていたことも一つの例です。二つの事例に共通しているのは、はじめから「文化財」があることを前提とした活動ではなかったことです。2003年7月以降、今回の震災も含め約500件の悉皆的な保全活動を積み重ねてきたことが、今回の「発見」に結びついたと考えています。また、二つの事例では所蔵者に加え史料について心に留めている地域の方々の存在も見逃すことができません。

個人的には、地元と協力しながら、種類を問わず地域での歴史資料の所在を悉皆的に確認し、保全・レスキューする活動を続けることの重要性を改めて学ぶ機会となりました。

             


参考
・宮城資料ネット・
ニュース152号「石巻での旧家レスキューの報告」

河北新報2012年3月3日「土蔵から司馬江漢の油彩 津波被災で解体寸前の民家で 石巻


ネット・ニュース161号(2012年3月6日)

           被災史料保全作業に参加して

        一橋大学大学院社会学研究科  特任講師 佐藤美弥

 2012年2月22日(水)から24日(金)までの3日間、一橋大学大学院社会学研究科から被災史料の保全作業に参加しました。国文学研究資料館の渡辺浩一さんからのご紹介で、社会学研究科の渡辺尚志ゼミ、若尾政希ゼミの大学院生を中心に、古代史から近現代史まで様々な専門を持つ有志がメンバーでした。私個人としては、3月の大震災後、歴史学を研究する者として、何ができるのだろうかと考え、微力ながら行動しながらも、今回の様な作業に参加する機会を得ることがなく、ぜひにと参加させていただきました。

 22日(水)13時、東北大学総合研究棟11階に集合、平川新さんより、宮城資料ネットの活動と保全作業の概要について説明をいただいたあと、作業に移りました。作業内容は、津波被害による水損資料の清掃と選別です。作業の方法は天野真志さんや、長く作業をされている地元の方々にご教示いただきました。
 私たちが担当した史料群は、石巻市住吉町に所在する個人宅のもので、明治期の和紙に墨書された書類から、戦時期の刊本まで、近現代の多様な史料を含むものでした。津波で水をかぶり、泥が付着しているものがあり、被災後10ヶ月ほど放置されていたため、カビが生えているものがあります。また、史料どうしが癒着し、剥離することが困難なものがありました。泥やカビの汚れをヘラ、刷毛の道具を使用して除去し、エタノールの希釈液によってカビの繁殖を抑え、修復が可能な史料と、困難なものを選り分けるというのが一連の作業です。作業を続けると、やはりそれぞれの史料の面白さ、貴重さを感じることとなり、いっそう作業の重要性を認識することとなりました。

    

 2日目、3日目も各自、作業を実施しました。2日目の作業終了後には平川新さんから、宮城資料ネット設立の経緯、活動の経過、そして東日本大震災後の史料救済活動について、また、救済史料を使用した新たな研究成果についてのプレゼンテーションを聴講する機会を得ました。

 作業への参加によって、ほんのわずかの時間ながらなにがしかの貢献ができたという充実感とともに、平川さんはじめ宮城資料ネットの方々のお話を伺い、その熱心さに打たれ、大災害時の対応と同時に、私たちが日常的に接する、史料への向き合い方、保全への意識を新たにする必要を痛感いたしました。参加者それぞれが貴重な糧を得たことと思います。今回はまことにありがとうございました。



ニュース160号(2012年3月5日)

          水損資料の保全作業に参加して

                      
             一橋大学  渡辺尚志

 2月24日に、若尾政希さんや私のゼミ生を中心とする一橋大学のメンバーとともに、宮城資料ネットの行なう被災資料保全作業に参加しました。

 私は、その直前の2月22〜23日に、東北学院大学の斎藤善之さんの案内で、岩手県大船渡市から宮城県石巻市にかけての被災地域をまわりました。伺ったなかには、津波によって、大量の文書を蔵もろとも流されてしまったお宅もありました。それでも、斎藤さんたちの調査グループがすべての文書をデジタル撮影していたおかげで、かけがえのない文書のデータだけは残りました。所蔵者の方や地元自治体の方が、そのことをたいへん喜んでおられるのを見て、日頃からの資料の所在調査・整理・写真撮影の重要さを再確認しました。こうした地道な作業の積み重ねが、資料を未来へと伝えることになるのだと実感しました。

 24日の保全作業は、東北大学川内キャンパス文化系総合研究棟11階の見晴らしのよいロビーで行ないました。作業内容は、水損資料のクリーニングです。ダンボールの台の上で、竹べらや刷毛を使って資料についた泥を落とし、カビが発生している箇所にはエタノールを噴霧します。紙同士がくっついて剥がれなくなっている場合は、霧吹きで水をかけてから、竹べらで慎重に剥がします。それでも剥がれない場合は、無理をせず、後日の処置に委ねます。これらは保全作業の第1段階に当たり、そのあとに水洗いや乾燥等のさらなる作業が控えているということでした。

 午前中は比較的水損の程度が軽い資料を扱ったため、カビと、それ以外の原因による変色との判別に迷う程度で、比較的スムーズに作業を進めることができました。ところが、午後担当したのは、大量の一枚物の紙が重ねて筒状に丸められ、それが海水と泥の付着によって剥がれなくなってしまった資料でした。それを竹べらと霧吹きを使って剥がしたのですが、薄い和紙が相互にピッタリくっついてなかなか剥がれず、作業にたいへんな時間と注意力を要しました。また、剥がす過程では、一部紙を破ってしまった箇所もあり、資料を破損することなく修復保全することの難しさと、それに要する時間と労力の多大さを実感しました。

 それでも、天野真志さんたち宮城資料ネットの事務局の皆さんやボランティアの方々に丁寧に教えていただいたこともあって、何とか作業を終えました。スタッフの皆様の懇切なご配慮に、あらためて厚くお礼申し上げます。

 また、平川新さんからは、資料ネットの活動と、資料の分析から見えてくる過去の災害の実態についてのお話を伺いました。災害と復興という視点から資料を読み直すことで、これまで気づかなかった多くの新発見があるということを教えられました。私自身も、そうした視点で村方文書を見直すことを通じて、近世人の災害との向き合い方について、あらためて考えなければならないと痛感しました。

 本当に、多くのことを学び、目に焼き付け、考えさせられた3日間でした。この経験をさらに反芻し、今後微力ながらもできることをやっていきたいと思います。 



159号(2011年2月1日)

        石巻の旧家での史料レスキューの報告

                                    宮城資料ネット 斎藤善之

 1月29日(日)、石巻市内の北上川に沿った津波浸水地区で、K家の史料レスキューを行いました。K家は江戸時代前期に登米から石巻に移住し、その後、近世を通して当地で町医者をされていたとされ、近代になってからも医院を開業されるかたわら議員を務めるなど地元では旧家として知られる家です。その建物も大きな母屋のほか2棟の脇屋、土蔵と納屋からなり、その規模の大きさと趣のある佇まいから、震災前において石巻千石船の会など地元郷土史家たちも少なからず関心を寄せていた家でした。
            
 3月11日の津波でこの屋敷は、1mから2mに及ぶ浸水に見舞われ、建物の一階床上ははすべて一面の泥に覆われ家具や建具も散乱してしまいました。昨年12月、当家のご子孫の方から私にご連絡があり、この建物はこの3月までに全て取り壊す予定であること、ついては関心があるならば内部のレスキューを実施して欲しいとのお話しをいただき、まずご子孫の方にお会いして内部を見せていただきました。母屋には相当数の襖があり、内部に江戸期から明治頃と思われる下張り文書がみられたこと、そのほかに納屋や土蔵にも古文書がみられたことから史料保全の必要性を確認し、宮城史料ネットと石巻千石船の会の連携のもと今回のレスキューを企画しました。

 当日は8名のメンバー有志の参加をえて、午前10時頃から現地で作業を開始し、母屋、納屋、土蔵の探索調査を行い、その結果午後4時前までに段ボールで30箱余、襖など20枚余の保全を完了しました。その多くが水損史料であり、被災から10ヶ月という歳月が経って、固着のうえにカビがひどく、このうちどれだけの史料の復元ができるかははなはだ厳しい状況ですが、史料ネットでまずは今後の処置について検討すべく東北大学の事務局に搬入しました。

 当日は数日前の雪が一面に残るなか、この冬一番の寒さという、レスキュー作業としては過酷な環境のなかでの実施となりましたが、これまで経験を積んできた事務局の周到な準備とメンバーの手際の良い作業によって、相当量の史料保全を予定した時間内に完了することができました。ご協力いただいた関係各位には心から感謝申し上げます。
          
              

158号(2012年1月25日)

仙台市内の被災土蔵で歴史資料レスキューを実施

宮城資料ネット事務局の蝦名裕一です。

 震災に明け暮れた平成23年(2011)から、平成24年(2012)へと年が改まり、被災地は復興へ向けての第一歩を歩もうとしています。一方で、今度は内陸部の被災建造物の解体が急速に進行しつつあり、これにともなって我々もまた日々慌ただしく各地に赴いています。

 1月中旬、仙台市内の旧家で土蔵が解体されるとの情報が事務局に寄せられました。これをうけて事務局では、土蔵の調査に伺いました。土蔵は震災の影響によって瓦が落ち、屋根には穴が空いている状態でした。別棟の被災家屋は既に解体工事が始まっていましたが、土蔵の解体に着手するのを待っていただき、1月18日に緊急の調査とレスキューを実施しました。

 同家は仙台市内にある神社の門前で、江戸時代から米穀店を経営しており、つい10年ほど前まで営業を続けていたそうです。土蔵の中からは、明治・大正期を中心とした米取引に関する帳簿類のほか、古文書を下張りとする襖などがみつかりました。取引先ごとに作成された大量の通帳(かよい・ちょう)からは、米穀店時代における活発な取引の様子がうかがえます。

 文書以外にも、屋号入りの暖簾や前掛けといった米穀店で使用された物品、また土蔵の片隅からは古いブリキのおもちゃがみつかりました。また土蔵の壁には、仙台市内の商店の名前が記された、古い団扇が多数掛けられておりました。その中には、近年営業をやめてしまったこの地域の商店の名前もみられます。神社の門前町として栄えた同地域も、ここ数年ですっかり様変わりしてしまいましたが、こうした物品から、かつて活発に活動していた商人たちの姿が偲ばれます。

それぞれの被災地で復興のデザインが定まりつつある今、復興計画に則して被災建造物の解体が進行するのは、やむを得ないことかもしれません。我々も被災地の一日も早い復興を願うと同時に、一方ではひとつでも多くの歴史資料を保全するため、今少し時間的猶予を与えてほしいと願う今日この頃です。



第157号(2012年1月10日)

事務局ボランティア作業に参加して 中央大学大学院 北村厚介(山崎圭ゼミ)

 雪の夜空が印象的な去る12月20日・21日の2日間、中央大学大学院山崎圭ゼミ(先生以下計5名)で宮城資料ネット事務局における被災資料保全作業に参加させていただきました。 事務局の天野さんやボランティアの方々から作業を1つ1つ丁寧に教えていただき、皆さんの明るく活気のある雰囲気や様々な配慮をしていただいたおかげで、初めて参加した私たちでも戸惑うことなく和やかに作業をすることができました。

 参加させていただいたのは水損史料のドライクリーニング、除塩作業(「東文救システム」)、殺菌・防黴作業です。 史料を傷つけてはいけない、ということは学部の頃から叩き込まれた「常識」ですが、泥や汚れを刷毛や竹箆などでこそぎ落としたり、水につけて洗浄したり、エタノールを吹きかけたりと、参加したどの作業も少しでも集中を切らせば史料を傷つけてしまうもので、朝から晩までの作業はあっという間に過ぎてしまいますが、終わった後に押し寄せる精神的な疲労は中腰からくる身体的な疲労とは比べ物にならないほど重いものでした。特に史料を水にひたして行う洗浄作業は、史料と液体とを一緒の場に置くことすらありえないという「常識」を持つ私たちにとって躊躇してしまうほどの緊張感があり、中でも濡らした近代の薄い罫紙という何をしても破れそうな史料をそっと、決して傷つけないよう慎重かつ適度な思い切りをもって扱うことは涙目になるほど緊張しました。膨大な被災資料に対して保全作業を行われてきた事務局・ボランティアの方々の労力に敬服するとともに、東日本大震災が「常識」の通用しない非常事態であることを、被災資料の保全作業を通じてほんの一端とはいえ痛感させられました。

 ボランティアの方々と触れあえたことも貴重な経験となりました。私たちを含めて両日とも10名以上の大所帯で、地元の方から私たちのように県外から参加した方、学部生から年配の方まで様々な方々と一緒に作業し、被災時のことやボランティアのきっかけなどさまざまなお話しをさせていただきました。お会いした方のほとんどが複数回参加されている方々で、地元からも遠方からも被災資料保全に継続的に関わっていきたいという姿勢が印象的でした。恥ずかしながら被災資料ボランティアに関わることは初めてでしたが、ボランティアの方々の思いや姿勢に触れ、頻繁に参加することは難しくても、継続的に何らかの形で関わり続けていきたいという思いを強くしました。

 2日間という短い期間ではありましたが、ボランティアの方々と被災資料を救助・保全したいという気持ちを共有しながら、真剣に、和やかに作業し、初日には平川先生の貴重なお話しを拝聴させていただき、とても有意義な経験をさせていただきました。温かく迎えていただいた事務局の方々のご厚意に対して私たちの作業が少しでもお役に立てたことを願うばかりです。ありがとうございました。

付記

 2012年最初のニュースは、昨年末にボランティア参加していただいた、中央大学山崎圭ゼミ北村厚介さんにご寄稿をお願いいたしました。東京からゼミ単位でご参加いただきましたことに改めて御礼申し上げます。(事務局・佐藤大介)


ニュース156号(2011年12月22日)

東日本大震災 被災歴史資料レスキューボランティアご協力への御礼
2012年1月からの活動について

■2011年歴史資料レスキュー

宮城資料ネット事務局佐藤大介です。宮城資料ネットによる東日本大震災の被災資料レスキューは、今日12月22日時点で現地調査77回、現場でのレスキュー41回となりました。レスキューした資料点数は概算で約2万点です。

仙台市にある事務局でのボランティアも、5月以降月曜日から金曜日の平日5日間実施してきました。参加者は延べ600名を超えております。多くの方々のご支援に改めて心より御礼申し上げます。


2012年1月ボランティアについて

事務局ボランティア

多くの方々のご協力をもちまして、仙台市の事務局で保管している分の被災資料については、応急処置が一定度のめどが立ちつつあります。

そこで2012年1月の事務局ボランティア募集は、一時中断させていただきます。あしからずご了承ください。なお、すでに個別に申込をされている方につきましては、この限りではございません。

なお、真空凍結乾燥処置などのため他地域に移送している被災資料が相当数あります。これらの応急処理についてボランティアが必要となった場合には、改めて募集いたします。その際はご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。

被災地でのレスキュー

2012年1月以降も、被災した土蔵などからの搬出など、現地での活動がある場合には、ニュース配信者の方々にメールにてご案内いたします。

現状ですが、事務局が見聞した範囲では、沿岸部の被災地では被災建物の解体が一定度進行する一方、内陸部については業者による解体(および修復)が、人員不足で手が回っていない状況にあるようです。現時点で、事務局には内陸部の所蔵者から、被災にともなう確認調査の依頼が寄せられています。

このような状況から、事務局では2012年1月以降も、特に内陸部被災地での建物解体などに伴う歴史資料レスキューが増えるという前提で対応を続けております。

東日本大震災での被災資料レスキューはまだその途上にあります。2012年も引き続き多くの方のご支援とご協力をよろしくお願い申し上げます。


ニュース155号(2011年12月20日)

石巻文化センター図書資料のレスキュー

事務局佐藤大介です。12月17日、18日の二日間、石巻文化センターにおいて同館所蔵の被災図書資料レスキューを行いました。

1986年11月にオープンした石巻文化センターは、石巻市の歴史博物館、美術館、公共ホールの機能が複合した施設です。北上川河口に位置する同センターは、3月11日の津波で一階部分が浸水し、職員の方にも犠牲者が出ました。地元の郷土史家が収集した考古遺物や民具、古文書などを含む「毛利コレクション」をはじめ多くの収蔵品が被災しました。これらは、5月以降に文化財等救援委員会による文化財レスキューにより順次搬出され、現在は搬出先各地での応急処置が続けられています。宮城資料ネットも5月15日にこの活動に参加しています(ネットニュース127号参照)。

一方、センターには全国の自治体から寄贈された自治体史や発掘調査の報告書、さらに郷土史や美術の図書類が1万5000冊ほど収蔵されていました。それらは、被災から9ヶ月を経てもなおそのまま残されている状況でした。石巻文化センターのみでの対応では限界があるため、同センターから要請を受けた宮城資料ネットで今回のレスキューを実施しました。地元に加え東京、横浜、京都、神戸などから2日間で22名が参加しました。

作業場所はセンターのロビーと2回への階段部分です。ここは、5月15日のレスキューで宮城資料ネットからの参加者が、泥と中に入り込んだ乗用車の撤去を行った場所です。作業では海水で被災した図書類の内、比較的状態のよい自治体史や史料集などハードカバーの図書を選び出し、簡易クリーニングを行いました。すでに陰干しがされていた図書類は大部分が乾いていました。しかし、近くの製紙工場から流れ出たパルプや砂、さらにカビがまだこびりついたままです。これらを一冊ずつブラシやたわしで汚れを落としていきました。クリーニングを終えた史料は、長い階段を登り、2階にある一時保管場所まで手で運んでいきました。

電気系統は止まったままで、作業は冬至目前となった日中の限られた時間で行わなければなりません。もちろん自家発電による暖房は用意されていましたが、16日から17日朝にかけての降雪や、午後に入ると日が陰って室内が暗くなっていくこともあり、より冷え込みを感じました。その中、参加者の懸命の作業により、今回は1500冊ほどの図書をレスキューしました。中には郷土史関係を中心に、現在では入手困難な図書も含まれています。作業に参加された方にはあらためて御礼申し上げます。

博物館や美術館が被災した場合、収蔵されている歴史資料や美術品は「文化財」、収蔵目録や館の運営に関わる文書は「公文書」として、それぞれのネットワークで救済対象として手がさしのべられると考えられます。実際、今回の震災でもそのような形で対応が進んでいます。一方、博物館や美術館には、利用者や職員の参考資料として、数多くの図書が所蔵されていることが一般的です。これらが被災した場合は、誰が、どのようにレスキューしていけばよいのでしょうか。レスキューできなかった図書の復旧についても気がかりなところです。行政の予算は限られています。しかし、もし予算が確保されていたとしても、自治体史や報告書など、現在では入手の難しくなっている書籍を再び入手できる保証はありません。

今回被災した他館の事例も学ばなければなりませんが、個人的には今回の活動で、「博物館・美術館にある参考図書」という存在と、それを救うためのしくみやネットワークが必要ではないか、ということを考える契機となりました。




ニュース154号(2011年12月16日)

12月12日 白石市で歴史シンポジウムを開催



宮城資料ネット事務局佐藤大介です。今回は12月10日に宮城県白石市文化体育活動センターホワイトキューブで開催された歴史シンポジウム「南奥羽の戦国世界−新発見!遠藤家文書に見る戦国大名の外交」のレポートです。


■歴史シンポジウム「南奥羽の戦国世界−新発見!遠藤家文書に見る戦国大名の外交

伊達政宗の父輝宗(1544−85)の重臣であった遠藤基信(1532−85)を祖とする遠藤家は、仙台藩の成立後も代々の当主が奉行(家老)職を勤めるなどした重臣です。また基信は伊達政宗の重臣として名高い片倉小十郎景綱(1557−1615)の仕官のきっかけを作った人物でもあります。

遠藤家の古文書は、白石市に住む同家の末裔の方が保管していました。また縁戚関係にあった、伊達家重臣の中島家文書も合わせて伝えられていました。これまで未発見だった戦国期の古文書が多数残されていました。宮城資料ネットでは両家の古文書資料を保全する活動を、白石市教育委員会と地元の郷土史サークルである白石古文書の会と協同で実施しています。詳細はネットニュース 号および 号を参照ください。2009年に行われた2回の保全活動で、全点の撮影と中性紙封筒への収納を終えています。現在は白石市の行政と古文書の会が主体となって、約6000点におよぶ文書の目録化が続けられています。これらの文書は、2011年3月11日に白石市の文化財に指定されました。

その11日に起こった東日本大震災に際して、白石市教育委員会では被災歴史資料レスキュー活動を実施しています。その中で、以前に遠藤家文書が一時保管されていた市内の土蔵から、新たに遠藤家文書100点ほどが確認されました。ここにも戦国期の古文書などが含まれており、教育委員会により保全されています。

今回のシンポジウムは、一連の活動の最初の成果として、行政と市内の文化財保護に関係団体と宮城資料ネットとの共催で行われました。2回目の保全活動が終わった直後からもち上がっていましたが、今回の震災もあり開催が一時危ぶまれました。しかし、白石市の博物館建設準備室をはじめとする関係者の尽力で、予定通りの開催となりました。

シンポジウムでは気鋭の戦国期研究者4名の報告と、会場からの質疑も交えたパネルディスカッションが行われました。一連の報告を通じて、南奥羽の戦国大名たちがいかにして家を保とうとしていたか、伊達輝宗と政宗の外交戦略の違い、さらには大名間の合従・連衡から生まれる地域としての一体感などが明らかになりました。

当日の来場者はほぼ満席の384名でした。会場には白石市民や市内外の歴史ファンに加え、江戸時代の遠藤家が所領を持っていた栗原市一迫川口地区からも多くの方が来場しました。なお同地区では2010年夏の宮城資料ネットの活動で、家臣の子孫の家に伝えられた多数の古文書が保全されています。

なおシンポジウムの関連企画として、白石城歴史探訪ミュージアムでは今回発見された遠藤家の戦国期文書10点の展示を12月18日まで、仙台市博物館では同館や財団法人斎藤報恩会所蔵の関連文書の展示が1月15日まで行われています。シンポジウム翌日の11日には仙台市博物館で展示解説が行われ、前日の参加者も含む来場者約50人が熱心に聞き入っていました。


■報告書『伊達家重臣 遠藤家文書・中島家文書 戦国編

遠藤家と中島家文書保全の成果として、白石市教育委員会編による報告書『伊達家重臣 遠藤家文書・中島家文書 戦国編』(白石市歴史文化を活用した地域活性化実行委員会発行)が刊行されました。遠藤家文書と中島家文書の戦国時代の古文書の写真と解読文、文書発見の経緯と内容を分析した論考4編が掲載されています。2000円で一般にも販売されます。詳細については博物館建設準備室(0224-22-1343)までおたずねください。



保全された古文書が、今回の企画で中心となった同市博物館建設準備室など行政の尽力と、地元住民の歴史への愛着により、目に見える形で結実しました。古文書の発見と保全が、地元のあらたなイベントを生みだし、そこに地域内外から集う人々の交流へとつながっていったことは、保全活動や、そこでの専門家の役割について改めて考えるきっかけとなりました。

宮城資料ネットでは今後も白石市での活動を続けていきます。また今回の経験を、たとえば今回の震災で被災した歴史資料の将来的な地元での活用などにおいても生かしていければと考えています。



 153号 20111020日)

物品資料の保全活動 ―レコード・着物のレスキュー活動について

 宮城資料ネット事務局の蝦名裕一です。

 宮城資料ネットでは主に古文書を中心として保全活動を実施していますが、レスキューの現場で接するのは古文書に限りません。特に東日本大震災の発生以降は、昔の生活用品や衣類などの物品資料に出会うことが多々あります。これらの物品資料については、専門家や専門機関と連携し、これらの資料が後世に残るように対応しています。今回は、こうした古文書以外の歴史資料のレスキュー活動について紹介します。


SPレコードのレスキュー活動
 6月上旬、東日本大震災で被災した大船渡市の所蔵者からレスキューの依頼があり、一関市博物館と芦東山記念館に勤める宮城資料ネット会員の方々がレスキューに赴きました。レスキュー活動では楽焼きの陶器や下張り文書のある屏風、さらに戦前のSPレコードが大量に発見されました。しかし、所蔵者宅は津波によって破壊され、これらのレコードを保管・維持していくことは極めて困難でした。現場から電話で連絡をうけた事務局では、津波で被害をうけた古文書や屏風の措置を実施するとともに、これらの被災レコード群を引き取っている機関を探しました。(右絵:写真提供・芦東山記念館

 東京都千代田区にある昭和館では、昭和10〜30年代、主に戦中・戦後の生活に関する資料を展示しており、生活用品などの実物資料のほか、図書・雑誌資料、映像・音響資料を収蔵しています。事務局から昭和館の図書情報課に連絡し、被災レコード群について引き取りを打診したところ、即座に了解をいただきました。
 今回レスキューされた被災レコードは全部で207枚あり、被災地から直接昭和館に送られました。昭和館ではこれらのレコードを水洗いして津波の汚れを落とすなどの洗浄処置をおこないました。結果、これらの被災資料は破損していた1枚を除き、全て再生が可能だったとのことです。現在、昭和館ではこれらのレコードを被災レコードとして保管し、音源をデジタル録音して公開する作業をおこなっているとのことです。(右絵:写真提供・昭和館)


着物のレスキュー活動

 7月上旬に資料レスキューを実施した亘理町の旧家では、古文書・文書類の他に、土蔵の2階に多数の着物が残されておりました。同家では自宅や土蔵の1階が完全に浸水する被害をうけており、取り壊さざるを得ない状態となっていました。所蔵者から、これらの着物類についても、引取先がないようであれば土蔵とともに処分することもやむをえない、とのお話を聞きました。

 資料レスキューの傍ら、これらの着物を何とかできないか、と話し合っていたところ、レスキューに参加された着物に詳しいボランティアの方から、古い着物を引き取ってリサイクルしている団体の心あたりを教えていただきました。その中で我々がコンタクトをとったのが、日本の伝統的な着物文化を再評価し、着物を着易い環境づくりを目指して京都を中心に活動している「NPO法人きものを着る習慣をつくる協議会」でした。同法人では東日本大震災の発生以降、被災者にゆかたを支援するなどの活動に取り組んでいます。

 同法人の理事長に亘理町の着物の引き取りについてお願いをしたところ、早速のご快諾をいただきました。8月9日、同法人の岩手事務局の方々と宮城資料ネットの合同で、これらの着物のレスキュー活動を実施しました。
 今回レスキューした着物類は、それぞれの特徴から大正時代から昭和前期のものと考えられました。女性用の着物は染・織の訪問着や普段着、男性用の着物は正装である黒紋付の羽織や仙台平の男袴がありました。仙台平は、江戸時代中期に仙台藩主が京都の職人を招いて織物を織らせたことが起源となり、その後、幕府や皇室への贈答品として珍重され、武士達に愛好されていたものだそうです。

 特に目を引いたのはこども用の着物です。男の子の着物は力強く育つようにと願いを込められた鯉柄に、こどもを災厄から守る意味をもつ紐飾りの刺繍がほどこされていました。また、女の子の着物には、当時の世相を反映して「ヰモンブクロ(慰問袋)」をもつ女の子が柄として描かれているものもみられました。右絵2点:写真提供:「NPO法人きものを着る習慣をつくる協議会」岩手事務局

 これらの着物は、仙台箪笥などの中に丁寧に折りたたまれており、日焼けや虫損、カビなどの被害もほぼみられず、状態が極めて良好でした。所蔵者からお話を聞くと、先代の奥様が定期的に防虫剤を入れるなど、こまめに管理をされていたそうです。また、着物とともに大量の端布もみつかりました。着物や帯を仕立てる際にでる端布を、着物の補修や繕い物に使用するために保管していたのでしょう。こうしたきめ細やかに手入れされた着物たちから、同家の女性たちがこどもの健やかな成長を願う気持ち、家族に対して抱いている愛情が、時を越えて伝わってくるような思いがしました。


 「NPO法人きものを着る習慣をつくる協議会」では、これら被災地からレスキューされた着物を用いて、下記の日程で展示活動をおこなうとのことです。

○滋賀県草津市   エルティガーデンシティー2階(滋賀県草津市大路1−1−1)
 10月25日(火)〜28日(木)

○東京都八王子市  八王子織物組合1階(東京都八王子市八幡町11-2)
 11月3日(木)〜5日(土)
 
 このほか、山形や岩手などでも展示会を実施する予定とのことです。皆様がお住まいの地域で開催された際には、是非足を運んでいただければと思っています。

 今回レスキューしたレコードや着物をはじめとした物品資料群。多くの人々の思いが込められ、受け継がれてきた品々は、それ自体が大事な歴史資料です。今、被災地から消えようとしている歴史資料たちを、より多くの人達と連携することで、ひとつでも多く後世に残していきたいと考えています。

<今回ご協力いただいた団体のサイト>
・昭和館HP http://www.showakan.go.jp/
・「NPO法人きものを着る習慣をつくる協議会」HP http://npo-kimono.jp/
・きもの支援センター活動報告「きもの支援センター日記」 http://sanrikusomeru.seesaa.net/



152号 (2011/10/15)

   宮城資料ネット展示

 「地球が震えた日 3.11から 歴史遺産を未来へ



 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。去る9月17日から25日、震災発生後に実施している被災地での歴史資料保全活動に関する展示「地球が震えた日 3.11から 歴史遺産を未来へ」を、仙台市博物館ギャラリーにて開催いたしました。

 開催の直接のきっかけは、仙台市博物館および市史編さん室のご厚意で、仙台市史講座特別企画「地域の歴史資料を救え」の関連パネル展にあわせ、宮城資料ネットの活動を紹介する機会を得たことです。一方、震災以前から、宮城資料ネット自体の活動記録と広報の必要性について会員のかたがたから提案がありました。そこで、本会会員であるまちのほこり研究所の千葉真弓さんに全体の企画をお願いし、展示を実施する運びとなりました。 また、尚絅学院大学表現文化学科より、展示資材の提供、展示準備および開催中のスタッフについて協力を得ました。(右絵:仙台市博物館での展示全景)

 関係者の皆様のご協力について、記して御礼申し上げます

 今回は、石巻市本間家土蔵の写真を用いた横断幕や70枚を超える活動の写真、今回の震災でレスキューされた女川町木村家文書の現物3点、さらに文書を収めていた茶箱の実物を展示しました。会期中の来場者は736名でした。

 続いて、展示ボランティアの山下ともさんと、展示企画をお引き受けいただいた千葉真弓さんからのレポートです。(右絵:展示期間中の風景:9月20日)

■パネル展の展示ボランティアに参加して

   尚絅学院大学 表現文化学科1年 山下とも

 9月17日〜25日に仙台市博物館にて行われていたパネル展『3.11 地球が震えた日』に、学生ボランティアとして関わらせて頂きました
 
 今回の展示は宮城歴史資料保全ネットワークの2003年からの歩み、および東日本大震災での歴史資料レスキュー活動の紹介ということでしたが、恥ずかしながら私は展示前に頂いた資料で初めてこの活動を知りました。また、展示に関する知識も足りないため、展示の準備や片付けの際は指示についていくのが精一杯でした。そのため、このパネル展にどれだけ自分が貢献できたかは疑問ですが、私にとっては有意義な経験となりました。
 
 1週間の展示期間中には、約700人の方に足を運んでいただきました。やはり来場者の方の東日本大震災への関心は強いようで、年齢層も年配の方から家族連れまでと幅広い年代の方がいらっしゃったように思います。特に年配の方はじっくりと展示内容を見ていく方が多く、中には30分以上かけて展示を見ていかれた方もいらっしゃいました。(右絵:展示の設営風景 9月16日)

 実際に被災した古文書や茶箱の実物に関心を示す方も多く、じっくりと見ていく方が多かったです。一度展示を見終わった方の中には、資料と一緒に配布したマンガ『漂流茶箱の冒険』を読み、改めて茶箱を見に来る方もおられました。また、小さいお子さんも展示してある写真や、『漂流茶箱の冒険』に真剣に見入っていました。
感想ノートには、宮城歴史資料保全ネットワークの活動に賛同、応援のメッセージが多く寄せられていました。

 今回の展示に関わり、宮城歴史資料保全ネットワークの取り組みはもちろん、展示を行う上での技術や工夫も教えていただき、学芸員取得を目指す私には大変勉強になりました。展示における照明の使い方や、現場で試行錯誤をしながら展示を作り上げていくことなど、実際に展示を作る側に立たなければわからないような経験を積ませていただきました。(絵:今回の展示スタッフ)

    

 私達が過去の人々の生活を知るには、当時の人々の記録を読むしか方法はありません。民家に仕舞い込まれていた古い生活の記録を、文化財としてデジタルで保存することでより確実に未来へ伝えていける。その大切さを、この展示のボランティアを通して教えて頂きました。

 このような企画に関わることができたことに感謝いたします。本当にありがとうございました



■ 展示制作の千葉真弓から、舞台裏レポートです。

 今回の展示ストーリーの源は宮城資料ネットニュースです。毎号行間から読む人を打つ強い感情が溢れてきます。ニュースの中で、強い光を放って見えたのが女川の漂流茶箱でした(マンガにしてアップしてあります)。この茶箱が今回の展示空間のへそ、象徴です。実物を展示空間の真ん中に置きました。茶箱の中の文書も数点展示されています。

 パネル原稿担当のみなさんには、厳しい文字数制限をお願いしました。文字がいっぱいあると「わーい同じ値段で大盛りだ」と思うのは…。最初にいただいた端正な文章に対しては「もっとバランスを欠いた、感情が吹き出すぎりぎり寸止めで」と普通と逆のお願いをしました。出来たのは誠実と愛情が伝わる文章です。(右絵:展示の「象徴」となった漂流茶箱)

 意義のある展示を制作させて頂き、ありがとうございました。

 自前の展示空間と展示専門スタッフを持たない宮城資料ネットです。今後「うちで展示を」とお声がけ頂けたら即応できるよう、「アマチュアスタッフでも展示が出来る出開帳セット」を鋭意制作中です。


 宮城資料ネットの活動に関する広報の方法について、また新たな経験を得ることが出来ました。その後10月8日・9日に東北大学片平キャンパスで開催されたオープンキャンパス「片平まつり」でも展示が行われています。スペースなど会場の条件に合わせて展示を設置できる強みを早速実感しているところです。内容については今後さらに議論を重ね、また最新の活動を反映させながら、よりわかりやすいものにしていきたいと考えています。

 最後に、今回の展示実施については、あくまでも途中経過を市民に向けて報告している、という認識です。活動はまだまだ続きます。この展示をきっかけに、地域の歴史資料を守っていくための輪が広がっていくことを願ってやみません。(右絵:東北大学片平まつりでの展示)


151号 (2011/10/02)
 

            地元の歴史資料保全の成果を守る

             「石巻古文書の会」収集資料レスキュー

宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。今回は、去る9 月15 日に実施した「石巻古文書の会」収集資料レスキューについての報告です。

石巻古文書の会は、25 年以上の活動実績を持つ、石巻市の郷土史サークルです。合併前の石巻市やその周辺の牡鹿半島や北上川下流域の旧家に残されていた古文書の整理と解読を行い、10 冊以上の古文書資料目録や史料集を刊行しています。サークルを主宰されている庄司惠一さんからは、震災前から石巻市周辺の歴史資料について多くの貴重な情報提供を受け、ともに保全活動に取り組んできました。

3 月11 日の震災では、庄司さんの自宅も津波で一階部分が完全に浸水し、書庫に保管されていた資料やデータも被災しました。その中で、庄司さんからは今回の津波で被災した地域の歴史資料情報が寄せられました。その情報を元に、女川町木村家文書ネットニュース124 号参照)など、数多くの貴重な古文書資料のレスキューにつながりました。(右絵:被災資料9月15日)

一方、石巻古文書の会関係資料については、震災から10 日後に庄司さん自身からの被災状況報告をいただいたことをふまえ、早くから宮城資料ネットによるレスキューの対象としていました。しかし、他の被災資料レスキューなどの兼ね合いで対応が大幅に遅れてしまい、震災から半年以上が経過した今回、ようやく現地を訪問する運びとなりました。

9 月8 日時点での情報によれば、移動式書架のレールがさび付いていて動かなくなっており、段ボールに収められた関係資料の搬出は難しい状況だということでした。そのため、今回の訪問では状況確認を行うこととして、現地へは佐藤一人で向かいました。ところが、現地に到着すると、訪問に備えて書架を点検しているうちに書架が動かせるようになったとのことでした。そのため、段ボール30 箱以上に収められ、書架の中に積み上げられた資料の状況を確認することが出来ました。書庫は機密性が高く、30 センチほどの浸水でとどまっていたとのことで、段ボールは最下段の5 箱ほどを除いて浸水を免れていました。体力的な不安もあり、これらを一人で搬出するかどうか、一瞬躊躇しました。しかし今回の訪問に合わせたかののように搬出できる状態になったこと、浸水した分は大至急レスキューする必要があると考えられたこと、念のため文化財等救援委員会から提供されたバンで訪問していたため、今回すべての資料を積み出すことが出来ると判断し、仙台の事務局と電話で協議した上で、一人でレスキューを行うことにしました。庄司さんの助力も得ながら、一時間を超える作業ですべての段ボールを搬出することが出来ました。(右絵:9 月15 日撮影浸水した資料(右絵:被災資料9月15日)

今回レスキューした資料は、最初に述べた史料集などの素材となった古文書資料のコピー、モノクロおよびカラー写真、解読原稿に加え、庄司さんが収集された仙台藩領関係の古文書資料現物も含まれていました。庄司さんによれば、特に沿岸部のものについては今回の資料で原史料が失われたものも多いということです。そのような古文書については、今回レスキューした複写資料が現存唯一ということになります。しかし、レスキューが遅れた結果、特に写真資料については厳しい状況にあります。写真については専門的な知識を持つボランティアの方の力を借りながら応急処置に取り組んでいます。

今回は石巻古文書の会が、宮城資料ネットに先立つこと20年以上前から地道に行っていた古文書資料保全の成果をレスキューしたということになります。地域に残された歴史資料を守るのに大きな役割を果たしてきたのは、石巻古文書の会のような、地元の歴史に愛着を持つ郷土史サークルに集う市民の方々だということを改めて学ぶ機会となりました

また庄司さんからは、今回のレスキューを契機に、収集した資料を広く共有していきたいというお話もありました。後者については、石巻古文書の会とも協力しながら、方法を模索してきたいと考えています。

地元の歴史資料保全活動の成果を守り、共有化する。また一つ新たな課題を確認できた今回のレスキューでした。

*庄司惠一さんご本人のご了承を得たこと、女川町木村家文書レスキューについては実名での報道がなされており、本ニュースではお名前を明記しております。(右絵:バンに満載になった被災資料)

 (右絵:応急処置中の写真 写っている古文書は原本が消滅している)



1502011927日)


被災資料保全のボランティア作業に参加して    佐佐木邦子 

 津波で被災した文書を修復するボランティアがあることは新聞などで知っていましたが、どうすれば私も加われるかは知りませんでした。ある会合で平川先生とご一緒し、資料保全ネットワークについて教えていただいて、さっそく参加させていただくことをお願いしました。

 3月11日の震災は私には大変なショックでした。地震で家の中がめちゃめちゃになり、同時にすぐ停電で、他の地域でどんなことが起きているのかわかりません。電気が通じるようになって初めて沿岸部の被災状況を知りました。我が家の被害など被害のうちにも入らないようなもので、その後、日が経つにつれ被害の大きさが明らかになっていきました。私でも出来ることがあればしたいと思いながら、周囲の方を手伝ったりお見舞いしたりしているうち、日が過ぎてしまいました。

 私が参加させていただいたのは水曜日を除く8月24日から9月9日までです。もっと続けるつもりだったのですが、ぎっくり腰になってギブアップしてしました。マスクはかけていましたが、分厚い被災文書を開くと、海の匂いともヘドロの臭いとも違う独特の臭いが立ちのぼります。ボランティアに来ていた陸前高田の学生さんが「津波の臭いだ」と言っておられ、ああそうかと思いました。
 泥まみれのもの、カビのひどいもの、紙が破れてしまっているもの、ページがくっついて剥がれないもの、文字が消えてしまったもの、綴じるために使った金属がかびたり腐蝕したりしているもの、などいろいろありました。こびりついている泥を竹ベラと刷毛で丁寧に落とし、エタノールを吹きかけて殺菌、その後乾燥させて終了です。文書の表紙はたいてい厚紙で出来ていますが、その厚紙が海水でボロボロになったり、表紙そのものがちぎれていたりするものも多数ありました。
 
カビが糊状になって表紙の裏にべったりくっついた紙は、なかなか剥がれません。エタノールで湿らせながら破れないように1枚1枚竹ベラやピンセットで剥がしていくのは気を遣いました。インクがにじんで次のページに写ってしまい、読めなくなっている文字もありました。泥とカビとエタノールの臭いの中で黙々と手を動かしていると、1枚の紙に籠められた人の思いが想像させられます。学校文書など、欄外に丁寧な文字で「何文字訂正」と書かれ押印されているものも少なくありません。1文字さえ大事に扱われていたのに、肝心の本文が消えて読めなくなっているのが、何とも切なく思われました。
 和紙や墨は濡れても強いものだと改めて感心しました。和紙にインクで書いてあるものもまあまあ。その点洋紙は破れやすく、手書きがガリ版になり、さらにパソコンになって、現代に近づくにつれ修復が難しくなりました。
 くっついているページとページを剥がすときに、かすかな音をたてて粒状の小さな穴があき、素直に剥がれてくれる紙がありました。塩の粒です。紙質のせいか波をかぶった状況のせいかはわかりませんが、意味ありげな小さな穴が点々と開いている紙は、何やら神秘的できれいでした。

 2週間目の終わり頃、廊下に積んであった段ボール箱がだいぶ減りました。みんなでやれば終わるんだ、と、当たり前のことかもしれませんが嬉しかったです。
 それにしても大学のスタッフの方々は大変です。被災資料の管理、人の把握、外部との連絡等、自分の研究はいつするのだろうと心配になるほどでした。エネルギッシュなボランティアの方々とお知り合いになれたのも貴重な体験でした。非力ですが、これからも時間を作ってできるだけかかわっていきたいといます。



 149号 (2011年9月12日)

      東日本大震災での歴史資料レスキュー
       セミナーと展示開催のご案内


宮城資料ネット事務局佐藤大介です。今回は9月18日に仙台市博物館で開催される第20回仙台市史セミナーと、9月17日から25日まで同博物館で開催されるパネル展示「3.11 地球が震えた日から」のご案内です。直前のご案内となってしまいましたが、多くの方々にご参加いただければ幸いです。

■第20回 仙台市史セミナー特別企画 「地域の歴史資料を救え」
◇演題と講師
○「大震災後における博物館の資料レスキュー」
 ・被災した「歴史」 菅野正道(仙台市史編さん室長)
 ・仙台市博物館の資料レスキュー活動 栗原伸一郎(仙台市史編さん室嘱託)

○「歴史資料の保存はなぜ必要か」
 平川新(東北大学東北アジア研究センター教授・NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク理事長・仙台市史編さん専門委員長)

◇日時 2011年9月18日日曜日 13時30分から16時
◇場所 仙台市博物館ホール(定員200名)
*申込不要・聴講無料です。
*問い合わせ 仙台市博物館市史編さん室 022−225−0814

■パネル展示「3.11 地球が震えた日」
◇展示内容
○「地域資料を救え」
・仙台市博物館・市史編さん室による、東日本大震災における仙台市域でのこれまでの歴史資料レスキュー活動をパネルで紹介します。
*「地域資料を救え」問い合わせ 仙台市博物館市史編さん室 022−225−0814

○「歴史遺産を未来へ」
・NPO法人宮城歴史資料保全ネットワークの2003年からの歩み、および東日本大震災での歴史資料レスキュー活動の紹介です。2キロ漂流して奇跡的にレスキューされた女川町木村家文書と収納茶箱の実物の展示もあります。

*「歴史遺産を未来へ」問い合わせ 宮城資料ネット事務局022−795−7546(佐藤)

◇日時 2011年9月17日〜9月25日(20日休館)
◇場所 仙台市博物館 1階ギャラリー
◇開館時間 9時〜16時45分(最終入場4時15分)
◇入場 無料  


■震災から半年
9月11日、震災から半年を迎えました。この間、多くの方々にご支援とご協力をいただいておりますこと、改めて心より御礼申し上げます。

宮城資料ネット事務局には津波被災資料に加え、9月に入り、被災した家屋などの解体に伴う歴史資料の取り扱いに関する問い合わせ件数が増えている状況です。特に、個人の家屋解体が本格化しつつある状況にあると推測され、引き続き情報収集を続けております。

一方、これまでレスキューした被災資料への対応は、全国からのボランティア参加の方々の協力で進めておりますが、被災資料の増加になかなか作業が追いついていかないというのが、率直な現状認識です。

引き続き皆様からのご支援を、よろしくお願い申し上げます



 148号 (2011年9月8日)


   事務局でのボランティア作業に参加して  青柳周一

去る8月29日、宮城資料ネット事務局での被災史料応急処置のボランティア作業に参加してきました。

今回の来仙は、8月27・28日に開催された民衆思想史研究会・東北近世史研究会の合同例会への参加にもあわせていましたので、まずそちらのことから記します。研究会は両日とも充実した内容でしたが、とくに28日の巡見で、震災によって大きな被害を受けた石巻市内を案内していただけたことは、自分にとって大変重要な体験となりました。東北大学にいた頃から石巻は思い出の多い土地であり、その現在の姿にはやはり衝撃を受けましたが、それでも見ることができて本当によかったと思っています。震災後の困難の中で研究会を見事に成功させたスタッフの皆さまに、この場を借りて改めて御礼申し上げます。

29日の朝、川内キャンパスの文科系総合研究棟の11階に着くと、段ボールやプラスチックケース、ソファーなどを組み合わせて作られた、被災史料応急処置のための大掛かりな作業スペースがいきなり目に飛び込んできました。そして、そこに処置を待つ被災史料の束や、大量の処置用の道具類などが置かれているのを見て、ここが今まさに緊急作業の真っ只中にある現場であることが実感されました。(右絵:被災資料のクリーニング作業(8月29日)

僕が担当した作業は、津波によって浸水した石巻の小学校の帳簿類のクリーニングでした。帳簿の表紙や頁のあちこちに泥がこびりつき、カビも発生しかけている様子なので、刷毛や竹べらで丁寧に泥を落とし、頁一枚ごとにエタノールを吹き付け、汚れを拭う作業です。前日訪れた石巻の史料であることに縁を感じましたが、海水をかぶってから時間が経ってしまったために生じる臭いは、今まで経験のない類のものでした。

この日の作業には、僕と同じく前日まで研究会に出席していた関東の大学院生とともに、地元から一般の女性の方々が多く参加していたのが印象的でした。事務局で尋ねたところ、地元の方々は特別な方法で募集したわけではなく、現在は資料ネットのメールニュースが相当広い範囲まで転送されているので、それを見て集まってくれたとのことでした。

かつて、仙台市による仙台城本丸艮櫓(うしとら・やぐら)の「再建」工事計画が持ち上がったとき、在仙の研究者が世話人となって「仙台城の石垣を守る会」が結成され、市民の方々と共同して石垣の保存運動に取り組んだことがありました。その頃から、研究者と市民とが地元の文化財や景観保存などをめぐって積み重ねてきた協力関係が、今回の被災史料の救出活動にあっても生きていると感じられました。この日の作業メンバーの皆さんは終始とても朗らかで、おかげでボランティア作業初参加で緊張していた僕もずいぶんと和まされ、大変ありがたかったです。 (右絵:泥を丁寧に落とす 8月29日)

 この日は晴れ渡った晩夏の一日で、研究棟11階からは窓いっぱいに広がる仙台の街並みをはるかに眺めることができました。高層ビルの林の向こうには青い海と、その上をゆっくり航行する巨大な白い船も見えました。あの海が今日のようにずっと穏やかであってほしい、と思わざるを得ない光景でした。

僕がボランティアに参加したのはこの日の朝から夕方まででしたが、事務局の方々から細やかに気を配っていただけたおかげで、とてもよい雰囲気の中で作業に取り組めました。しかし自分が不慣れなせいもあり、一日ぐらいでは厚めの帳簿一冊をクリーニングし終わるのがせいぜいです。現在、事務局には膨大な点数の被災史料が運び込まれており、これからの作業に必要な時間と労力は相当な量に及ぶことが想像されます。東北から遠く離れて暮らす身ではありますが、今後もなるべく機会を見つけてボランティアに参加したいと思っています。どうぞ、よろしくお願いします。


147号 (2011/08/22)


奈良への旅津波被災資料の凍結乾燥処理

宮城資料ネット事務局佐藤大介です。8月12日、奈良文化財研究所(奈良市)と、その協力企業である奈良市場冷蔵(大和郡山市)を訪問しました。

この震災では、津波による古文書や文書資料の被害への対応が最大の懸案となっています。ずぶ濡れになった文書資料を大量に乾燥する方法の一つが「真空凍結乾燥法」です。水濡れした資料を一旦マイナス30度程度で凍結させた後、真空凍結乾燥機により直接水分を気化(昇華)させ、乾燥するというものです。

真空凍結乾燥機は、通常は遺跡発掘で得られた木製品などを乾燥するために使われています。今回の事態に対して、東北芸術工科大学文化財保存修復センター(山形市)と奈良文化財研究所(奈良市)から、文書の乾燥に機材提供の申し出を得ました。宮城資料ネットからはあわせて7件の文書をそれぞれの機関に送り、凍結乾燥を依頼しています。各機関では現在もスタッフやボランティアの方々により、処理が続けられているところです。(右絵:奈良文化財研究所の真空凍結乾燥機)

今回は、奈良文化財研究所の高妻洋成さんから、女川町木村家文書など乾燥が終了した資料の状態確認の依頼があり、事務局より佐藤が奈良に出張してきました。

奈良文化財研究所からは、4月下旬に宮城資料ネット事務局に直接連絡があり、同研究所に設置されている国内最大の真空凍結乾燥機の利用などの協力の申し出をいただきました。その一方、研究所では膨大な津波被災資料の凍結をどのように行うかが課題となりました。研究所の冷凍庫だけでは不足する中、協力を申し出たのが奈良市場冷蔵です。奈良文化研究所での対応と、冷凍設備の不足に対する懸念ついての記事が新聞に掲載されたのをきっかけに、会社から奈良文化財研究所に協力の申し出があったとのことです。

最初に訪れた奈良文化財研究所では、処理に用いられている真空凍結乾燥機を確認しました。直径1.6メートル、コンテナ約120個分が処理できる機械では、この日も被災資料の乾燥処置が行われていました。今回は主に木村家文書の視察でしたが、この他にも気仙沼市や仙台市の被災資料が処置を終え、コンテナで積み上げられていました。木村家文書ですが、去る5月12日に女川町から引き取った時、文字通りずぶ濡れだった資料は、処理を経て見事に乾燥していました。ここでは仙台への返送に備え、資料1点ごとの点検と袋詰めを行いました。(右絵:乾燥済み資料の入ったコンテナの中で資料を確認する)


その後、12日夕方には高妻さんのご案内で、大和郡山市の奈良県中央卸売場にある奈良市場冷蔵を訪問しました。同社の浦島申次さん、伊藤珠樹さんにご案内いただき、冷凍倉庫の中を確認しました。フォークリフトで荷物の出し入れが忙しく行われる中、冷凍食品が保管されている倉庫の一角に、防カビなど収納のために必要な処理がなされた被災資料が3メートル近くの高さで積み上げられていました。これらの資料は、今後も順次乾燥処理がなされていきます。(右絵:フォークリフトが行き交う奈良市場冷蔵の倉庫)
 
なお、乾燥後の資料には、依然として海水に含まれる成分は残った状態です。これらの成分が、特に和紙資料にどのような影響を及ぼすのかわからない現状では、塩抜き(洗浄)その他の工程で「修覆」することが不可欠です。奈良文化財研究所で乾燥された資料の一部は、すでに京都造形芸術大学(京都市)にてクリーニングが進められていますが、修覆への対応については関係者の方々と相談しながら進めてゆくことになります。

高妻さんや伊藤さんのお話からは、奈良での被災資料対応の体制作りにも、そこに関わる多くの方々の尽力や善意があったことを知りました。本ネットニュース145号(天野真志さん)、146号(野村育代さん)の報告にもありましたように、被災地で、仙台の事務局で、さらには全国各地で、ボランティアや保存修復の専門家など多くの方々の支援を受け、少しずつではあっても着実に、様々な方法で被災資料の応急処置は進んでいます。(右絵:「古文書」と記された段ボール箱が積み上げられた冷凍倉庫)

一方、大規模災害への対応を組み込んだような平時の文化財保存修復や、宮城資料ネットなど現場で資料保全を行う組織と保存科学・修覆の分野が連携して、モノとしての歴史資料の長期保存を実現するような仕組み作りが必要である、という共通認識も得ることができました。善意頼みではない資料保全の体制を、ということは私もネットニュースなどで触れてきましたが、これからの歴史資料保全における大きな課題として、引き続き考えてゆく必要があるでしょう。


1462011819日)

東日本大震災  文書クリーニングに参加して

             野村育世   (高等学校・中学校教諭/日本中世史・女性史研究者)


まるで、かき氷にかけるイチゴとレモンのシロップみたいなシミが、今でも目に焼き付いています。
私は、8月8日と9日の2日間、仙台の東北大学川内キャンパス内にある事務局で、ボランティアに参加しました。

8日の朝、まだ夏休みになっていないらしい学生たちで混雑するバスに乗って、事務局があると聞く東北アジア研究センターを目指して行ったのですが、柵がめぐらしてあって、建物は見えるのにいつまでたっても行き着けません。なんと、ここも被災して現在は使われておらず、事務局は研究棟のてっぺんの、大変見晴らしのよい広い会議室にあったのでした。ちゃんと調べないで行ってしまったのですね。

ここには、東北の各地域から被災した資料が運び込まれています。私が担当した仕事は、津波に浸かった文書の泥を落とし、エタノールを噴霧してカビを殺菌するクリーニングの仕事でした。私が手掛けたのは現代の文書で、古いものでも今から50年ほど前のものでしたが、丈夫な和紙と異なり、かえって扱いにくいものでした。

5か月経った今でもまだ少し湿っていて、くっついた薄い紙をはがすのが一苦労です。一般的に海水に浸かるとカビは生えにくいそうなのですが、長らく放置されていたので、ところどころにカビが生えています。そのカビが、どういうわけか妙にきれいで、ピンクとイエローの水玉がぽつんぽつんと散ったようになっているのです。

はがした紙にエタノールを噴霧すると、たちまち紙はびしょ濡れになって透き通ってきます。これで、カビの根は絶たれたわけで、作業は基本的にそれで終わり。後は乾くのを待つばかりです。

こうした仕事を、黙々と9時から5時まで集中して行ないます。作業そのものは全く苦にならず、かなり集中してやっているのですが、あっという間に一日は終わり、仕上がった分量はほんのわずかです。それでも、一日働けば充実感があり、美味しい海鮮料理を味わい、満足してホテルに戻りました。

ところが、その夜、何やら怖ろしい夢を見て目が覚めてしまいました。こういうことは滅多にないので、よほど神経が緊張し、疲労していたのだと思います。やはり、頭で考えるよりも大変な仕事なのでした。

事務局の皆さんは、ご自身の業務をこなしながら、飛び込んできたマスコミの取材に答え、アルバイトやボランティアに指示を出し、指導し、作業時間・休み時間を管理するなどとても忙しく、そして少しでも時間があれば作業場所にやってきて、文書クリーニングの仕事を進められていました。とても大変なお仕事だと思います。そして、忙しい中、休み時間にスイカを出してくれるなど、親切にいろいろ配慮してくださって、おかげ様で、とても気持ちよい雰囲気の中で、作業をすることができました。

ボランティアでご一緒した方々は、仙台市民のとても元気な女性たちが多く、市内の美味しいところを教えてくださったり、仙台市民や被災地の方々の今のお気持ちをさりげなく話してくださって、お話できてとても楽しく、有意義でした。また、高速バスでボランティアに通ってくる院生など、若い真摯なまなざしに触れて、刺激を受けることができました。

また機会があれば、皆様とご一緒したいと思います。2日間、本当にお世話になり、ありがとうございました。


 1452011816日)

東日本大震災 事務局における水損資料保全活動
   

 宮城資料ネット事務局の天野真志です。 4月以降、各地で確認された津波被災資料が事務局に搬入されてきております。海水に浸かった資料を保全するため、現在事務局では資料のクリーニング作業を実施しております。今回、こうした活動について紹介させていただきたいと思います。

水損資料の状況

 今回の震災は、甚大な津波被害を受けたことで、多くの資料が水損しました。現在、事務局には多くの被災資料が一時保管されていますが、ほとんどの資料が水損資料です。塩水に浸かった資料はカビが生えにくいという見解もありますが、時間の経過や気温の上昇という要因もあり、これまで確認された資料の多くはカビが繁殖しております。そのため、早急に保全措置をとる必要があります。
 4月以降、全国からお申し出をいただいたボランティアの方々と、水損資料のクリーニング作業を実施しております。

東京文書救援隊からの技術支援

 7月15日、被災した紙媒体資料を救済するために組織された東京文書救援隊から、被災資料洗浄に関する技術指導を受けました。
 「東文救システム」と呼ばれる洗浄作業は、(右絵:資料洗浄のレクチャー
ー2011年7月15日)


@水の上に発泡スチロール製のボードを浮かせ、その上に網に挟んだ資料を乗せて洗浄

A吸水タオルで吸水した後、不織布に挟んだ資料を濾紙にのせ、段ボールに挟んで乾燥させる

という工程でおこなわれます。一連の作業過程では、資料が網や不織布に挟まれているため、直接資料に触れることがないという特徴があります。そのため、水に濡れて破れやすくなっている資料を扱うには非常に安全で効率的とのことでした。また、不織布や濾紙など、ほとんどの材料が再利用することができるということで、経済的な負担の軽減も期待されるものと思います。(右絵:資料乾燥のレクチャー 2011年7月15日)

 今回技術支援を受けた「東文救システム」は、洗浄から乾燥にいたる一連の工程を、一つのシステムとして確立した点に特徴があると思います。これまで宮城資料ネットで実施してきた洗浄作業は、洗浄や乾燥など、それぞれの工程で問題に直面することで、いくつかの方法を考案してきました。資料洗浄の工程では、水に浸けた資料を保護する必要から、ボランティアの方と協議し、網戸の網を利用した洗浄をおこなっていました。また、吸水については神戸の歴史資料ネットワークから、セームタオルと呼ばれる、競泳選手が体を拭くために使用する吸水タオルをご紹介いただきました。このように、個別の知識や技術については、それぞれの必要性に応じて身近な道具を利用した作業方法を模索して対処しておりました。今回、東京文書救援隊の方々によってご紹介いただいた技術は、それらの行程を一連の作業として効率化することのできるシステムであると思います。また、乾燥方法についても、これまでの乾燥工程で問題となっていた時間効率やスペースの問題を解消することができます。さらに、発泡スチロールを使用した洗浄工程も、水中に泳がせて洗浄していたこれまでの作業にくらべ、資料を破壊する危険性を軽減するものとして画期的なものと思います。(右絵:東文救システムでの資料洗浄ー2011年8月1日)


 震災から5ヶ月が経過し、被災した地域や確認されるまでの時間の経過などに応じて、様々な状態の水損資料が確認されております。また、多種多様な紙の性質や形態、墨書かインク書かの違いなど、被災した資料は必ずしも一様ではありません。こうした資料の状態や性質に応じた速やかな保全措置を講じていく必要があります。東京文書救援隊からのアドバイスはもちろん、これまでも真空凍結乾燥やスクウェルチ法と呼ばれる方法など、多くの方から様々な処置方法をご紹介いただき、協力のお申し出をいただきました。宮城資料ネットでは、実際にそれぞれの方法を実施し、資料の性質や状態に応じた、より効率的な作業方法を選択していきたいと思います。

奈良国立文化財研究所や東北芸術工科大学では、現在も真空凍結乾燥法による作業を実施していただいております。また、山形文化遺産防災ネットワークからは、水損資料のクリーニングに関して協力のお申し出をいただきました。さらに、全国各地からボランティアのお申し出をいただき、毎日のように多くの方々が事務局で洗浄作業を実施していただいております。活動にご協力いただいた皆様に、この場を借りてあつく御礼申し上げるとともに、今後ともご支援・ご協力のほど、よろしくお願いいたします。



 144201185日)

    栗原市金成有壁における資料レスキュー

          宮城県美術刀剣保存協会  後藤 三夫 

1) スタート
7月29日、栗原市教育委員会文化財保護課大場亜弥さんと金成有壁館下の萩野公民館・萩野出張所で、蝦名さんと現地集合ということでレスキューに参加した。当日はうす曇で、暑くもなくまた心配された雨もおかげさまで降らずじまいで、格好のレスキュー日和といったら不謹慎だが、幸先良いスタートを切れた。
東京から御当主の関係者が立合いにこられるためか、開始が午後1時からだったので夕方までに完結できるか多少不安があったが、蝦名さんの的確な指示のお蔭と大場さんの大活躍もあり、予定内で完了することが出来た。

2)周辺環境
ここ有壁は秀吉の奥州仕置前の大崎・葛西の重臣が固めた中世城館があり、また江戸期の宿場町で現在も国指定史跡の旧有壁本陣が威容を誇っている。主に松前・南部藩・八戸藩・一関藩の宿泊所であり休憩所であった。この町の北を登ると林に囲まれた街道が続き林内の獣道のような細い道を左折すると、明治初年以来忘れられていた江戸期の姿のままの奥州街道がある。そこから難所の肘折坂を経て一関藩内に通じる古道である。緑と清流に囲まれた静かで文化遺産に恵まれた美しい町並みが印象的だ。

3)現状
この宿場町のあちこちで今回の震災の被害が見られ被害の大きさを今もって生々しく見せている。被災したまま手付かずの旧家が数件見られた。大場さんにも引き続き現地情報を得ていただくよう、蝦名さんからお願いしたところである。
 今回のレスキュー先は昭和初年の建築建屋だが、代表的日本家屋で取り壊されることがとても残念な建造物だった。道路に面して母屋・瀟洒な離れ・土壁の土蔵で構成されすでに取り壊し準備のため、周辺の草刈が完了し大型のパワーショベルが待機していた。

4)レスキュー
大小の襖、近代の教育資料などが主だが、毛筆の古文書も数点散見された。立会人の見守る中で、タイムカプセルのように当時の御当主の生活そのままに残っていたかばんの中から、亡御当主の大事な情報の詰まった書類を発見した時、このまま処分されずに済んだことに、改めてレスキューのやりがいを強く感じた。

5)蔵開け隊
土壁の土蔵は今回のレスキューのために鍵を壊して入るという、所謂蔵開け隊そのものだった。貴重な民俗資料、蔵の梁も今では有得ない贅沢で貴重な材料で構成されている。御当主関係者に、もったいないし、この町にはとてもよく似合うものなので、いつか残しておいて良かったという日が来る筈と話したところ、蔵は取り壊さず残すことを決断頂き、とてもうれしかった。蝦名さんの車に満載の状態でレスキューした資料を詰め込み、母屋と離れに今までの活躍を感謝しお別れした。

6)さいごに
当日御当主関係者と建設関係者に加わり、大場さん、蝦名さんともに安全祈願と、取壊しのお祓いに臨席できたことも付け加えたい。レスキュー隊員も一緒になって百年近く活躍した建物を祝福し心ならずも見送ることに参加できたのは望外の喜びであった。
(建築は100年前でもその係累は江戸・明治を彷彿とさせる古い形を伝えてくれる素敵な建造物であったことを明記しておきたい。震災さえなかったら、それでも修復して利用できたらと帰路の車中で苦悶するくらい、いい建物だったなあと今でも悔しい思いです。)

 143号(2011年7月30日)


唐桑の「トポス」−気仙沼市での被災古建築保全
   

 宮城資料ネット事務局佐藤大介です。今回は7月21日から24日に気仙沼市唐桑町で実施した建築班による同町S家家屋の保全活動について報告します。

 S家の概要と被災状況については、メールニュース132号などをご参照ください。今回の活動では、明治30年竣工の主屋と、それ以前にさかのぼると思われる土蔵および板蔵群の測量を実施しました。建築班の呼びかけで、東京大学生産技術研究所太田浩史ゼミを中心に、東京、金沢、大阪から合計16名が参加しました。(右絵:測量方法の説明 22日)

 学生メンバーは初めての古建築測量という事でしたが、古建築を数多く手がけられた金沢の建築士武藤清秀さんからのアドバイスをうけ、主に穀物蔵や、戊辰戦争に敗れた仙台藩兵3名が立てこもっていたという板蔵、馬小屋の測量を行いました。一方、主屋を測量した東京大学のポルトガル、ブラジル、ギリシャからの留学生3名は、日本の「尺・寸」単位を慎重に確認しながら、気仙大工の技術の粋が尽くされた建物を測量してきました。今回の活動では、当日の台風接近に伴う瓦の落下などに備えて測量対象から外した文庫蔵を除く各施設の平面図についておおむね測量を終えました。残りの部分や建物の立面については8月下旬に測量を実施する予定です。なお、今回は計測器を用いた傾きの調査も行いましたが、1800ミリ(1.8メートル)の柱に対してわずか5ミリの傾きで、完成後2度発生した(1936、1978年)宮城県沖地震や、今回の大震災でもほとんど影響がなかった事が明らかになりました。気仙大工たちの確かな技術力がここでも証明されました。(右絵:野帳作り 22日)

 一方、今回参加した東大太田研究室メンバーは、地区の復興プラン作りの支援も行うことになっています。22日夜には地元の自治会関係者との交流会が、S家近くの集会場で行われました。前日まで徹夜で作ったという地区の立体模型を囲みつつ、津波の様子や地域の特徴、そして目下の復興に向けた課題について率直な意見が寄せられました。一方、太田研究室では偶然にも昨年から1755年の地震と大津波で被災したポルトガルの首都リスボンの都市計画の研究をしていたとのことで、50年をかけて復興を成し遂げたという経緯が紹介されました。地元の方々も、ぜひこのような事例に学びながら、長期的な視野で復興に取り組んでいきたいと大いに感銘を受けておられました。(右絵:交流会の様子 22日)

 個人的には、「過去に学ぶ」ということが復興に寄与しうるということを実地で知り得たのは収獲でした。その一方、これまで何度も調査に訪れた、唐桑や三陸沿岸での明治や昭和三陸津波からの復興に向けた取り組みについて、何一つ説明できなかったということに、研究者としての自分の力不足を痛感させられもしました。

 今回の調査は、地元の宿泊施設が仮設住宅などの復興関係者で満室とのこともあり、S家のご厚意で地元の集会所に宿泊しました。食事もS家の方が地元の主婦2名を依頼してご快諾いただいたおかげで、今回の活動を実施することができました。お二人とも津波で家を失ったとのことですが、困難な状況の中私たちを温かくもてなしてくださいました。S家および地元の方々のご尽力について、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 活動期間中の23日夜には、地元の復興イベントで市の無形民俗文化財にも指定されているカツオ一本釣り漁をテーマとした民謡も見る機会がありました。S家の古建築に加え、地元の被災後の実情と、それにも関わらず受け継がれる文化にも十分触れることのできた4日間となりました。(右絵:地元に伝わる民俗芸能の披露23日)

 帰りの挨拶に際して、ギリシャからの留学生より、ギリシャ語には「場所」を示す「トポス」という言葉があるが、そこには歴史や風土、文化といった要素すべてを含む言葉である、唐桑のこの地はまさに「トポス」であり、今回の活動に参加できてよい経験になった、という感想が御当主に寄せられました。それを聞いて、私自身も震災に伴う歴史資料レスキューが、古文書や民具、美術工芸品といったモノを守ると同時に、それが表す東北の人々の営みと、その蓄積で築かれてきた風土や景観、すなわち「トポス」の継承にもつながるような活動であればという思いを新たにし、今回の活動を終えました。



142号(2011年7月26日)


7月13・14日レスキュー参加記      東京大学史料編纂所 遠藤基郎
   
 梅雨のあけ直後の7月13・14日、私は亘理町・涌谷町2箇所のレスキューに参加した。7月13日は亘理町荒浜のE家の救出作業。同家は、阿武隈川河口付近、堤防脇にあった。堤防土手頂上に設けられた1メートル余りのコンクリート壁が200メートル以上失われ、土嚢で応急措置が施されている。津波が凄まじい力で堤防を乗り越えた痕跡であった。

E家より海側は、すでにほとんど更地となっていた。近くでは重機が建物を破壊するガガガッという音、そして瓦礫を運ぶダンプの重いエンジン音。更地の彼方には瓦礫の山の上に、何台ものパワーショベルがあがり、更に瓦礫を積み上げる様子が見える。瓦礫の山の脇には津波に耐えたであろう5階建てのビルが見えるが、瓦礫の山はその4階部分に達していたであろうか。それは人間の生活の痕跡=歴史の無秩序な固まりの極みであった。(右絵:土蔵からの資料レスキュー)

E家は旧商家である。ご当主のお話によると、江戸末期に荒浜に土着し、質屋などの商業を営み、かつては亘理町および隣接する岩沼市沿岸に広大な土地を所有した近代地主であったという。江戸・明治の亘理町は、阿武隈川水運と太平洋海運との結節点として栄えたというから、地域全体の豊かさこそが、E家の繁栄を支えたと思われる。

その所蔵資料、ということは今回の救出資料は、地域の資産家としての家の事業に関わる近代文書である。さらに書画・什器あるいは調度類など、美術・工芸品、そして近代文豪の原稿コレクションや各当主の集めた膨大な書籍群があった。地域名望家の文化的役割を示す貴重な資料である。

 救出対象品目が多数に昇り、亘理町教育委員会、文化財等救援委員会(文化庁)、宮城資料ネット合同活動として行われた。拠点は亘理町郷土資料館(悠里館)である。救援委員会は、奈良国立文化財研究所・東京国立文化財研究所あるいは全国の博物館よりの派遣館員など、20名以上の人員で構成される。さらに奈良国立文化財研究所より資料運送専用トラックも派遣された。今回、宮城資料ネットは救出事業のサポートという形での参加となった。

 E家現地より搬送作業と、それを一時保管する悠里館での応急措置、二つのグループに分けて救出作業は実施された。私自身は、現地搬送作業に属した。母屋・見世蔵・土蔵1階部分が完全に浸水していた。外壁白壁部分が無惨に崩れ落ちた土蔵の中から人海戦術で運び出され、照りつける太陽の下、広げられたブルーシートの上、いっぱいに文書類・扁額・襖・置物が並べられる。30度を超える暑さに、作業者の熱中症が心配されたが、雨により作業が中止されるよりは、格段に増しと言えただろう。
 今回の救出作業で特に触れるべきは、二つある。
 ひとつめは、居住母屋内部にあった明治の地図および土地証文である。これはご当主の記憶をもとに探索されたものであった。ご当主の指し示された母屋の一角、古い金庫のある納戸とおぼしき場所には、ペットボトル・雑誌・手芸用品など汚れた海水に浸かった品々が層をなしていた。それら堆積物を文字通りかき出した、一番底に貴重な資料類は残されていた。作業途中、記憶違いではと不安な想いがご当主・ネットメンバーによぎらないではなかった中での「成果」に、みな安堵した。とともに、ご当主の記憶の確かさ、すなわちご自身の家の歴史資料への愛着こそが、貴重な歴史資料を後世に伝える力となっていたことに気づかせられた。

 いまひとつは、土蔵内部のタンス引き出しの中から発見された資料類である。これは撤収前の最終確認作業中に発見されたものである。引き出しは、震災当日に押し寄せた海水がそのまま残った状態であり、真っ黒なヘドロ状の水につかった文書と写真とおぼしい資料があった。(右絵:土蔵一階で発見された引き出し)

 特に惨憺たる状態にあった写真とおぼしき資料については、文化財等救援委員会の修理専門家によって、悠里館において応急措置が施された。その結果、それは昭和初めの絵はがきであることが確認された。また他の資料についても凍結乾燥他で十分、救済可能であるとの診断。ぎりぎりのところで資料を救出しできたことに、資料レスキューの意義をあらためて感じた。

 今回の作業は、文化財等救援委員会の手によって、人手あるいは輸送方法を短期間に大量に投入したものであった。資料レスキュー事業全体としては、複数グループが関わることで伴う問題点はあるのであろうが、緊急性という点においては、有意義であったように感じた。もちろん、修復・管理、そして活用という今後の長い長い道のりにこそ、なお困難があることは言うまでもないのだが。

 夕刻、作業終了後、搬送作業グループはご所蔵者に挨拶をして、E家をあとにした。ご当主は、一般書籍も多数所有されていたが、それらも全て廃棄せざるを得ないことを悔しそうに語っておられた。近日中の取り壊しに立ち会うであろうご当主の心中を察するに余りあるものがあった。

14日は、涌谷町のN家であった。同家は、「月将館」(涌谷伊達家の郷校)の教官を務められた家である。今回の作業は、ご当主よりの連絡によるものであり、翌15日取り壊し直前の作業となった。(右絵:欄間の揮毫を取り外す)

内陸にある涌谷町は海岸部と比べるともちろん地震被害は少ない。古川から涌谷への路上で見る限りでも、電信柱の傾斜、一部家屋の損壊、そして道路の隆起など、地震の傷跡は見られた。築120年以上というN家は、一部天井が崩れ落ち、ところどころ柱が歪んだ状態であった。近隣の住宅にはほとんど被害が無く、N家のみが甚大な被害をうけている様は、そこだけ異空間であるような不思議な光景であった。

今回のレスキューは、近世の古文書・短冊・手習資料、書画・襖(下張り文書あり)・額、そして弓など古い道具類の搬出である。旧家ゆえに天井は低く、ヘルメットがいくたびか鴨居にぶつかる。改めてヘルメットの必要性を痛感した。

 亘理E家と同じく、N家の場合も、美術・文芸資料は多い。一般的な歴史の立場からはどうしても副次的な扱いとなってしまうことが多いが、あらためてこうした資料をどのように位置付けるべきかという問題を私なりに考えるよい機会になったと思う。おそらく近世・近代研究者にとっては常識に属するのであろう。中世史を専攻する私にとっては、有意義な体験であった。

今回救出した資料のうち大部分は宮城県立美術館に、また一部は湧谷町資料館で一時保管となった。
 
今回の2日間のレスキューには、宮城県内のみならず、東京・関西からの参加者があった。特に関西からの参加者は、兵庫の震災・水害での資料レスキュー経験者とうかがった。自身の経験が、彼女・彼らを突き動かす力となっていること、そして本当の意味での
「繋がる」ということが強く感じとられた2日間でもあった。


1412011725日)

 よみがえれ苔の庭園−岩手県大船渡市

 事務局佐藤大介です。7月1日・2日に引き続き、7月9日・10日に実施した大船渡市C家の被災調査および建築班による測量について報告します。

 C家は戦国時代末期からの旧家で、江戸時代以降は網元や山林経営を行ってきました。同家にはその活動を示す膨大な古文書資料が所蔵されており、2005年より斎藤善之さん主催の三陸古文書研究会(三陸研)で整理が進められています。宮城資料ネットもこの活動に協力しております。

 一方、同家は江戸時代の部材を再利用した1939年建築の主屋と、江戸時代築と推定される土蔵、さらには1784年(天明4)修覆の刻印が刻まれた石段を持つ「持仏堂」と呼ばれる先祖代々を祭ったお堂の古建築が残っています。海抜10メートルほどの切り立った高台の上にある同家は、明治や昭和の三陸津波でも被災することはありませんでした。しかし、今回の津波では主屋の床上まで浸水したとのことです。土蔵二階にあった古文書は被災を免れましたが、主屋の東側に設けられていた坪庭の塀がすべて流され、土蔵や持仏堂も基礎部分が被災しました。さらには、苔が一面に敷き詰められていた庭も津波での被害を受けました。(右絵:土蔵の被害調査)

 去る5月1日に実施した宮城資料ネットの被災状況調査では、主に持仏堂の雨樋と基礎部分の応急処置を実施しました。今回の活動では、全体的な被災状況の確認と共に、貴重な古建築を将来に伝えるための基礎作業として、建物及び庭の実測調査を実施し、建物の記録を作成することとしました。 

 建築班の作業には事務局より佐藤と、建築班の佐藤敏宏さん、今回の被災建物調査で全面的なバックアップを得ている金沢の建築家橋本浩司さん、中村彩さん、武藤清秀さん、野田直希さん、さらに京都で造園に関わる武廣健さんの7名で実施しました。今回の日程に合わせて千田家の後片付けボランティアを行った三陸研9名からも作業サポートを得ました。

 作業では主屋、土蔵、持仏堂を実測し、平面および立面の野帳を作成する一方、庭については広さに加え、石垣の配置、庭石の角度や池の構造までも詳細に記録化しました。私は主屋床板の修繕に加え、野田さんの指導により持仏堂の立面図測定を担当しました。三陸研の一員として古文書調査に参加し、何度も持仏堂は拝見させていただきましたが、今回の建築班の作業で、同家のまさに中心ともいえる施設の測量を経験することができました。尺目盛りでの測量に神経を使いつつ、古文書や建築を現代まで継承してきた代々の方々のことがより身近に感じられたような気がしました。(右絵:持仏堂展開図測量)

 C家建物の被災状況ですが、武藤さんによれば土蔵の柱に一部腐朽が見られるとのことでした。しかし、全般的には今回痛んだ部分は地震ではなく、それまでの経年劣化が主な原因だとのことです。古文書調査の折々に御当主から見せていただいた、隙間なく閉まる持仏堂内部の御厨の扉も、今回も寸分の狂いなくでした。「気仙大工」として知られる地域の職人衆が腕をふるったC家の建築は、今回の大地震でも構造にほとんど被害がなかったことが明らかになったのでした。(絵左:庭石垣の測量)

 一方、庭を担当した中村さん、武廣さんからは、庭がいかに大切にされてきたかが、調査でよくわかったとのことです。さらに、被災した苔も持仏堂の裏側などで復活していました。坪庭の修覆と合わせ、代々の当主が数寄を凝らし、現代の当主が丹精込めて維持してきた庭園、そのシンボルとなる苔の庭をどのように蘇らせるかが、今後の課題となりそうです。

 なお、作業中に土蔵一階から新たに江戸時代のものと見られる屏風6双が確認されたため、建築班により仙台の事務局に搬出しました。これらは7月19日、事務局を訪問された京都造形大の内田俊秀さんにより、やはり江戸時代のものと確認されました。こちらの応急処置についても引き続き関係者からのご協力を得て対応することにしております。 (右絵:庭土を掘り造園の履歴を調べる)


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   大正建築の保全塩竈市・仙台市

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。事務局発のメールニュースはしばらくぶりです。この間、週3回程度のペースで現地でのレスキューを行っておりました。今回は建築班の活動として7月1日・2日に実施した大正建築の保全活動の報告です。

市民が守る住宅建築−塩竈市

 7月1日は塩竈市の「海商の館・亀井邸」の被災調査を実施しました。同邸は、塩竈を拠点に創業した総合商社の社長宅として、1924年(大正13)に竣工した住宅です。和風の主屋と、木造モルタルで石造風の建物を再現した洋館の離れとが折衷された建物は、内部の装飾にも様々な工夫が凝らされた、まさに当時の職人の技術を伝えるものです。この建物は2009年より一般公開され、観光や地域の文化交流施設として活用されてきました。

 この建物は、今回の震災により洋館外壁の漆喰や内部の土壁が崩落するなど、27ヶ所の損傷を受けました。被災調査では基本構造に損傷はみられないという結論になりましたが、伝統的工法での復元を検討するため、同邸を運営しているNPO法人みなとしほがまの依頼により、宮城資料ネット建築班による被災調査を行うことになりました。建築班責任者の佐藤敏宏さんと、同氏が京都から招聘した一級建築士の森田一弥さん(森田一弥建築設計事務所)の二名での調査となりました。森田さんは技術者として京都の金閣寺や大徳寺などの修覆に関わった経験のある、漆喰建築の専門家です。(右絵:車座会議の様子)

 1日日中に行われた建築班による調査では、建物の破損は震災が原因ではなく、今回のような建物には典型的に見られる経年劣化が、震災によって現れたもの、ということでした。同日夜には今後の方向性について会議がもたれ、事務局から佐藤も出席しました。会議は市民自らこの自体に何とか対応していこうという、前向きで熱気にあふれたものでした。この建物が多くの人々によって支えられているということを知ることができました。建築班として、このような動きを引き続きサポートする方向で対応することにしております。

 森田さんからは、「京都などの有名な建物と比べて価値判断するのではなく、自分たちの守ろうとしているものにもっと自信を持ってほしい」という話も事務局にありました。古建築も含め、東北の歴史遺産を守ろうとするものにとって、心すべきことのように思われました。


消えゆく店舗建築−仙台市

 7月2日は、仙台の旧市街地にある店舗建築の調査を行いました。1915年(大正4)に建てられた店舗は、数年前の閉店時まで現役で使われていました。今回の震災で全体が南側に傾き、柱の木組みが外れかかるなどの被害を受け、所有者の方が解体を決断されました。宮城資料ネット事務局に同家の民俗資料調査にあたった会員の野村一史さんから連絡がありましたので、所有者の方の許可を得て、解体前に各部の寸法を測定し、建物の平面と二階部分の立面について野帳(やちょう)を作成することにしました。

 調査は4名で行いました。私も含む3名は建築測量などの経験はありませんでしたが、佐藤敏宏さんの指導で測量と野帳作成にあたりました。フリーハンドで直線を引く難しさもありましたが、今後の図面化に向けた基礎的なデータを集めることができました。

 所有者の方からは、地震があるたびいつ崩れるか心配で仕方なかった。やっと解体できてホッとしている、とのお話がありました。所有者の方が、思い入れのある建物を残そうと懸命に努力をされてこられたことは明記しておきたいと思いますが、やはり個人の力だけで古建築を維持していくのは限界がある、ということを改めて認識しました。(右絵:野帳作成)

 今回の震災で、多くの古建築が被災し、私たちを含め様々な保全活動が行われています。一方、仮に費用面などの問題がクリアされ、建物を修覆することができたとしても、その本来の機能は、現代社会においてはすでに他の施設などに取って代わられているものが大半です。

 古建築の新たな機能や価値を再発見し、さらにはその保全に責任をもって関わろうとする人々の継続的なサポートの有無が、その先の運命を左右するということを知った二日間でした。



139号(2011年7月15日)

      仙台市史編さん室の被災歴史資料レスキュー
 
■仙台市域での被災歴史資料調査

 宮城資料ネット会員の栗原伸一郎です。先日お伝えしましたように、現在、仙台市博物館では、宮城資料ネットと連携しながら歴史資料の保全活動に取り組んでいます。仙台市内の各地域(城下町周辺部の旧村地域)を巡回し、これまでの調査先と未調査ながら資料所蔵が予想される旧家を訪問して、歴史資料の被災状況を調査し、保管を呼びかけています(調査方法や当初の活動については宮城資料ネットニュース121号をご覧下さい)。4月20日から活動を始め、7月14日までに延べ30日間で244箇所の旧家や寺社を訪問しました。ここでは、最近2ヶ月の活動状況についてご報告いたします。

 最近の巡回調査は、これまで仙台市博物館で調査をしていない旧家を中心に訪問しています。活動には、博物館職員や『仙台市史』執筆担当者のほかに、宮城資料ネット事務局などが参加しました。宮城資料ネット事務局には仙台市内の被災資料についての問い合わせも数多く入っているため、博物館と情報を共有し、連携しながら調査をしています。また、訪問場所の選定のために、地域の歴史を調査されている地元の方に旧家や資料所蔵者に関する情報を提供いただくなど、市民の方々にも協力いただきながら活動しました。

 5月中旬以降は、仙台市内各地域2巡目の巡回でした。震災の影響によって歴史資料を廃棄した事例が幾つも確認された一方で、古文書など何らかの歴史資料を所蔵していることが確認できたお宅は、訪問したうちの半数近くに上りました。そのなかには、個別に詳細な調査をお願いしたいお宅が数多くあります。また、最初に訪問した際には歴史資料の存在が確認できなかったものの、再訪問した際に確認できたという事例も複数ありました。資料の保管を呼びかけたところ、その後に見つかったものを廃棄せずに残して下さったということでした。今までは、なるべく多くのお宅に資料の保管を呼びかけることを主眼としていたため、ほとんどのお宅は聞き取り調査を一度行ったのみですが、今後は詳細な資料調査や、再訪問による再度の聞き取り調査も行っていたきいと思います。

 なお、沿岸部では、津波の被害を受けた旧家や寺から水損した文書資料が発見されることもありました。これらは博物館でお預かりし、エタノール噴霧などの応急処置をした後に、一部の資料については文化財レスキュー事業に引き継ぎました。水損資料については、後述の倉橋報告をご覧下さい。

 また、巡回調査とは別に、これまで資料調査をしてきた資料所蔵者に対して、歴史資料の保管を呼びかける文書を送付しました。これは仙台市内のみならず、宮城県全域、そして福島県や岩手県にお住まいの方に対して送っています。仙台市外については、なかなか仙台市博物館で対応することが難しい場合が想定されましたので、呼びかけの文書では、心配事のある方は博物館のほかに、宮城資料ネット・ふくしま史料ネットに連絡するようお願いしました。文書をお送りした方のなかには、所蔵する美術品や古文書の今後の保管について相談される方や、廃棄を思いとどまっていただいた方もいらっしゃいました。
 
 その他、仙台市博物館の活動としては、仙台平野の地震と津波災害の歴史や東日本大震災における資料レスキュー活動について、8月28日までパネル展を開催しています。この展示については、幸い多くの市民の方が興味を持って下さったようで、様々な問い合わせをいただいています。巡回調査や文書送付、そしてパネル展示による呼びかけを通して、一人でも多くの方が、自分の周囲にある歴史資料の価値を再認識していただき、今後の保管について考えていただければと思っています。


仙台市史編さん室での津波水損資料レスキュー

 同じく会員の倉橋真紀です。栗原報告にあります活動を一緒に行っております。 仙台市史編さん室員としての業務では資料整理を担当しており、近年、災害時の資料保存について具体的な事例が紹介される中で、仙台市内で何らかの災害により歴史資料が被災した場合は自分がその任に関わることになるだろうと意識しておりました。
 
 関連する報告書や論文を確認したり、水損資料保全のワークショップへ参加するなどして情報は得ていたつもりでしたが、泥が付着し、海水により完全に浸水したり、圧着したりしている資料をいざ目の前にすると、この方法でいいのか、いずれのマニュアルに従えばいいのか迷いながら作業をする日々となりました。
 
 幸い仙台市博物館の建物は震災当初より空調や水などが止まることもなく、保全活動を行う環境としては恵まれていたと思いますが、資料の分量が多くなりますと「人員と場所」という制限が掛かり、最初に分量が増えた時には私一人では対応しきれず、文化庁の文化財レスキュー事業へ協力をお願いすることとなってしまいました。
 
 津波による被災という報告されたことのない事例ということもあって、最初はなかなか私が必要とする情報を得られませんでした。しかし、全国的な支援が広がる中で文化財レスキュー事業への相談が可能となり、専門の方にご指導いただくことができたり、東京文化財研究所や東京文書救援隊などのボランティアグループの運営するホームページに具体的な事例と共に情報がアップされるようになったりして、今ではある程度の自信を持って作業を行なえるようになりました。
 
 仙台市内の水損資料の受け入れは現在のところ相談件数も落ち着いて来ておりますが、調査は継続されており資料保全の活動はまだ途上です。今回の災害を受け、資料の大量被災をどう処置するのかを検討し、常に最新の資料保全技術を紹介しようとして下さっている方々に感謝しつつ、その技術を学びながら今後に備えたいと思います。



第138号(2011年7月4日)

 事務局でのボランティア始まる 事務局でのボランティア活動報告


 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。地震発生から4ヵ月近くが経過しましたが、事務局には史料保全の相談や問い合わせがほぼ毎日のように寄せられています。そのようなお問い合わせにはできるだけ素早く対応するようにしており、結果多くの被災した歴史資料の保全に結びついております。

 そのことにともない、事務局には津波で水損した古文書などの被災史料が増え、その応急処置のための人員確保が大きな課題になっておりました。そこで6月後半より、平日に事務局での作業に対するボランティアを募集し、作業への協力をお願いすることになりました。 

 現在は一日2〜3名ほどの方々が参加されています。社会人の方の中には、仙台に自費で長期滞在されたり、逆に平日の休暇を利用して、遠隔地から日帰りで参加されたりと、貴重な時間を割いて献身的に作業に参加いただいております。この場を借りて御礼申し上げます。

 また山形資料ネットからは、宮城資料ネットが実施する事務局での応急処置への協力のお申し出がございました。活動を迅速かつ効率的に進めるため、2件分の史料群について山形市での作業を依頼いたしました。山形資料ネットの協力にも改めて御礼申し上げます。

 一方、仙台地区の各大学から、史料実習などの授業の一環として、ゼミ単位で事務局でのボランティアへの参加もいただいております。この中では、実際にクリーニングやエタノール消毒といった、津波で被災した古文書の応急処置もお願いしております。これからの社会を担う学生の方々に、歴史遺産や文化財の災害対応という活動領域があることを知っていただく機会になれば、と考えております。

*事務局でのボランティア活動が報道で紹介されました。
 日本経済新聞電子版 http://www.nikkei.com/  「写真特集」(トップページ右側)  

■8月の事務局ボランティア募集について
 7月末日までに、下記のテンプレートに必要事項をご記入の上、事務局まで参加希望日および時間をご連絡ください。なお、8月10日より18日は盆休とし、事務局での作業は行いません。

 作業の内容ですが、津波水損文書の処置、ふすま下張り文書の解体などです。なお、現地でのレスキュー活動が入る場合もございます。その場合は現地での活動となりますが、その場合には参加が難しいという方は合わせてお申し出ください。

 ご協力いただける方は、下記のテンプレートに必要事項をご記入の上、事務局までご返信ください。



------------------------------------------------------
お名前:
ご所属:
ご住所:
電話番号(当日連絡可能なもの):
参加を希望される日:
時間帯:
 午前9時〜12時(  )
 午後1時〜5時 (  )
 夜間6時〜8時 (  )
その他連絡事項:
------------------------------------------------------

参加人数の定員は1日5名といたします。定員に達した場合、その他事務局の都合により、ご希望に添えない場合があることをあらかじめお含み置きください。

 8月についても今回の募集前より、多くの方より参加申込を頂戴しております。あつく御礼申し上げます。引き続き多くの方のご協力を、よろしくお願い申し上げます。
│<事務局・連絡先>  │
│NPO法人 宮城歴史資料保全ネットワーク

│ 電話 022-795-7693/7546 080-1666-5919(携帯) │
│メール office@miyagi-shiryounet.org ホームページ http://www.miyagi-shiryoun │
│et.org │
│ │



第137号(2011年6月25日)

再びの雄勝町−石神社所蔵文書レスキュー

宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。今回は6月16日に実施した石巻市雄勝町での活動報告です。

石巻市雄勝町の石(いその)神社は、国の重要無形民俗文化財となっている「雄勝法印神楽」を伝承してきた神社です。3月11日の大津波で社殿や神楽の道具の一部が流失するとともに、神楽保存会の会長さんが犠牲になられました。当初は存続を危ぶむ声もありましたが、5月28日に雄勝総合支所前で震災後初の興行を行い、新たな一歩を踏み出したところです。(右絵:雄勝総合支所庁舎の横断幕)

その石神社に伝えられた古文書のレスキュー要請が、石巻市教育委員会を通じてあったのは6月14日のことでした。津波で水損した文書が見つかり、中には神楽に関わるものが含まれているということで、即座にお引き受けし、日程調整して16日午後におうかがいすることになりました。地震発生後初めての被災地訪問で、以前に調査した古文書1万2千点の消滅を確認した、あの4月4日以来の雄勝町行きです。

前回と同様、三陸道を降りた後は北上川南岸の堤防上を通って雄勝に向かいます。津波で破壊されていた新北上大橋近くの堤防は、急ピッチで復旧が進められていました。雄勝町中心部ではがれき撤去が多少進んでいましたが、ビルの上の観光バスはそのまま、人通りも全くといっていいほどありませんでした。やはり津波で大きな被害を受けた総合支所の庁舎には、全国からの支援への感謝と「おがつ ふっかつ 絶対勝つ!」のスローガンを記した横断幕が掲げられていました。その支所を横目に、津波でずたずたになった防波堤際の道路を通って、石神社に到着しました。(右絵:被災した古文書の一部)

 若い宮司さんのお話によれば、古文書や神楽の道具を保管していた社殿が流失した際、屋根の部分に偶然にも床がはまり込んで、その中に文書などが収まった形になったようだ、ということでした。さらに屋根は湾の入り江にある小島に引っかかって流れていかなかったのも幸いだったとのことです。屋根が見つかったとの知らせがあったのが3月30日で、4月はじめから資料探しを始めたが、近くに犠牲者のご遺体が流れ着いて作業を中断する、ということもあったとのことです。

古文書については、ご自分で乾かしていたということで、適切な対応もあって比較的良好な状態でした。ただし、それでも水濡れのひどいものや、乾燥する中で紙が張り付いてしまったものも含まれていました。文書の中には事前の情報通り、江戸時代中頃の神楽に関する資料がありました。さらに祝詞を記した古文書2冊は、現在上演されている神楽でも使っているものなので、特に至急の対応を依頼されました。ご許可を得て数百点にもおよぶ古文書や、郷土史家でもあった先々代の宮司さんがまとめた地域史に関する原稿などすべての資料をお借りし、早速仙台の事務局で乾燥やクリーニングなど必要な対応を始めています。


今回レスキューした古文書は、まさに地域の伝統芸能に用いられ、そこに暮らす人々のよりどころとなっている「生きた」史料といえます。その復旧に関わるという責任の重さを痛感しているところです。(右絵:元文4年(1739)の神楽関係文書)

雄勝法印神楽は、この秋鎌倉市で上演される事になりました。今回レスキューした古文書も、この興行で用いられることになります。その一方、今回の津波により、神楽に用いる面や道具の多くが失われてしまったとのことです。


 600年間守り伝えられてきた地域文化を、さらにこの先へと伝えてゆくためには、多くの方のご支援が不可欠です。この紙面を借りて、雄勝法印神楽の復興に向けた取り組みに対し、全国の方々のご支援を、よろしくお願い


1362011621日)

    陸前高田市での資料レスキュー

 宮城資料ネット事務局の蝦名裕一です。 震災から3ヶ月が過ぎました。梅雨時をむかえ、津波で被災した資料の状態もかなり悪いものも目立つようになりました。歴史資料のレスキュー活動も時間との戦いになりつつあります。(右絵:地盤が沈下した陸前高田市の海岸線)

 6月12日、岩手県陸前高田市へ歴史資料のレスキューに赴きました。東日本大震災では、3月11日に発生した大津波が同市の市街地を襲い、その高さは20メートルまで駆け上がったともいわれています。津波から3ヶ月、市内に入る山道を下った我々が見たのは、山裾から海岸まで見渡せてしまう程に、壊滅的な市街地の惨状でした。陸前高田市は震災により地盤が84センチも沈下し、以前は陸地だった場所の多くが海面の下に沈んでいました。かつて我々が岩手県南で調査をする際によく訪れていた道の駅や、その近くにある風光明媚な高田松原も、無残な姿となっていました。

 今回訪問した地域は、海岸から1.5q離れた小高い丘陵地に位置していました。一見、山あいにあるように思われるこの地域にも、今回の大津波が押し寄せました。訪問先のご主人のお話によると、震災の日は東側の海岸と西側の海岸の両側から波が押し寄せ、この地点で渦を巻いていたそうです。資料が保管されていた土蔵は、もとあった場所から50メートル先に流されていました。また、土蔵と併設していた母屋は完全に消滅していました。後日、母屋に置かれていた手紙類は、後日海岸線で活動していた自衛隊に回収され、ご主人のもとに届けられたそうです。改めて、震災大津波の凄まじさがうかがわれます。(右絵:津波によって流された土蔵)
 
 土蔵に保管されていた一部の資料は、いち早くご主人と郷土史家の方の手によって土蔵から搬出され、乾かす作業をおこなっていました。いち早くこうした対応をしていただいたことで、資料の状態は比較的良好であり、近世後期から明治期にかけての古文書が多数確認されました。また、土蔵2階に残る刊本類を調査したところ、同地のユネスコ活動に関わる資料が発見されました。このユネスコ活動は、かつての同家のご当主がユネスコ学園や日本初となる民間ユネスコ図書館を設立したもので、のちに岩手県で展開する民間ユネスコ運動のさきがけになりました。資料の多くは津波に浸水しておりましたが、学園で用いられていた卒業証書や入学案内、独自に発行していた新聞や校長先生の草稿などをレスキューしました。これらの資料は、事務局でお預かりし、水損被害に対する応急処置を実施しています。

 作業の中で、前述のご当主の資料を管見すると、終戦直後の荒廃した日本の姿を目の当たりにしながらも、戦後の日本の再生を担う若い世代への教育に希望を見いだし、私財を投じて教育活動に取り組んだひとりの教育者の姿が浮かび上がってきます。こうした先人の姿は、現在震災によってうちひしがれた人々の心に、ひとつの希望を与えうるのではないでしょうか。一介の歴史研究者として、現在の資料レスキュー活動によって地域の資料を守ること、そこに描かれる地域の先人達の活動に新たに掘り起こすことが、被災地再生の一助に繋がることを願ってやみません。(右絵:土蔵2階でのレスキュー状況)



第135号(2011年6月18日)

 亘理町荒浜での資料レスキュー   日本学術振興会特別研究員PD(東北大学) 小関悠一郎

2011年6月10日、亘理町荒浜のM家で行われた資料レスキュー活動について報告します。宮城資料ネット・ニュース101号でも報告されている通り、荒浜地区は津波の被害が甚大で、大きく破壊された家々と所々に付された犠牲者収容の印が現在も残されています。M家も外壁に津波の高さを示す跡がはっきり残っておりました。作業当日立ち会われた奥様は、地震発生当日、津波が押し寄せたため、お宅の庭にあるキンモクセイの木によじ登り、寒さの中そのまま3時間ほど過ごされるなど、大変なご苦労をされたとのことです。(右絵:倉庫から資料を搬出する)

今回作業が行われたM家は、江戸時代から荒浜に住んで問屋を営み、浦役人を務めた旧家です。阿武隈川舟運や東回り海運に関する文書など多数の資料をご所蔵で、2002年12月から奥羽史料調査会によって、現地調査(袋詰め・写真撮影)と目録化作業が行われました。今回の活動は、その際に中性紙封筒に詰められた文書などの資料搬出、および資料が保管されていた倉庫の整理・点検が作業の中心となりました。

作業メンバーはまず、亘理町立郷土資料館(悠里館)に集合し、M家や亘理町教育委員会の方々らと合流しました。同館での集合には、奥羽史料調査会での調査等、以前からM家に関わってこられた斎藤善之さんも、大学での講義の直前に駆けつけられました。(右絵:搬出された資料)

そこからM家に移動し、宮城資料ネットの蝦名裕一さんの陣頭指揮の下、作業が開始されました。作業は主に母屋と倉庫で行われました。母屋では、二階から軸物類を、床板をはがすなどの処置が施されていた一階の居間から額装された古文書をそれぞれ搬出しました。

倉庫の方は、窓ガラスが大きく割れ、壁の下方の一部がへし折れて穴があいたようになっており、そこに多くの物が散乱した状態でした。作業は、倉庫内にある物品を倉庫脇のスペースに運び出して、それらを点検・整理し、倉庫に戻すという流れで行われました。点検・整理は、教育委員会やM家の方を中心に行われ、資料館への搬出物、処分する物品(廃棄物として道路脇の仮置き場に運搬)、倉庫内に戻すもの(数人がかりでの作業が必要な什器類も多数)に分けられました。点検・整理の後、倉庫内の砂や泥を掃き出し、風雨の浸入を防ぐため、破損した窓に段ボール等で応急処置を施した上で、物品を搬入して整理し、倉庫での作業は終了しました。

最後に、搬出資料を亘理町立郷土資料館(悠里館)に運び入れました。予めまとめておいていただいた未整理の下張り文書段ボール一箱分については、宮城資料ネットで整理することになっています。

以上の作業の中で、様々な道具類やその箱、そこに記された品名や年号の墨書を目にしました。なかには、背に江戸時代のものと見られる古文書数点が貼り付けられた箪笥も見られましたが(これについてはデジタルカメラでその写真を撮影)、これらはM家や荒浜地区の歴史の一端を示すもののように思われました。共に作業し諸資料について話もしたM家の方は、こうした資料に関する様々な知識を持ったメンバーに来て整理してもらって本当によかったと仰っておられました。今回の作業が、地域と住民の皆様の前進の一コマになればと願っています。(右絵:屋から搬出された額装の古文書)



(追記)
M家の御当主につきましてはメールニュース101号にて「亡くなられた」と記しましたが、ご健在であることが確認されました。ニュースの当該部分は取り消します。合わせて、関係者の皆様にご迷惑をおかけいたしましたことをお詫び申し上げます。
今回のレスキューは、御当主からのレスキュー要請に基づき、亘理町教育委員会、文化財救援委員会現地対策本部との協同で実施しました。(事務局・佐藤大介)


第134号(2011年6月17日)

 東松島市での資料保全活動  仙台市歴史民俗資料館 畑井洋樹

今回は6月6日(月)に東松島市で行った保全活動についてレポートします。

 当日は事務局のお二人とともに鳴瀬川河口から3キロほど上流、東松島市役所近くの住宅地にあるE家で保全活動を行いました。 (右絵:確認された「風土記御用書上」)

 震災当日はこの住宅地も津波に襲われ、家々の流出はなかったにせよ、住宅地一面が「湖の中で孤立した状態」となり、E家も一部で床上浸水したそうです。震災から約3カ月を経過した訪問時も一部の床面で湿気が感じられるところがあり、住宅内に入り込んだ水分が容易には抜けないことが体感されました。

 E家には掛軸を中心に文書も含めて7,80点の資料が残されていました。縁戚に近隣の土地を所有した地主で明治時代には村長も勤めた家があり、これらの資料は約30年前にその縁戚関係にあった家が取り壊される際、移管してきたものとのことでした。震災以前は他にも多数の資料が敷地内の倉庫に保管されていたそうですが、倉庫は津波で床上浸水したため、水損、汚損した資料の多くは廃棄処分されたようです。

残された資料の中には、安永年間の地域の様子を詳細に記した「風土記御用書出」があったほか、仙台藩の御用絵師と思われる銘の入った掛軸や屏風、扁額などもあり、当地の文化交流の深さがうかがわれました。また、何らかの水路の浚渫に関わる人名簿、明治時代中期の徴兵関係の個人資料もみられ、近世から近代へと時代が移る中での地域の産業の変遷、個人の生き方の変遷をも示す多様な資料が見られました。いずれの資料も状態は良好でしたが、E家の了解を得て、清掃と写真撮影を行うため一時的に事務局へと搬出しました。(右絵:地域の生業を示す近代文書)

今回は津波被害を免れた資料を対象とすることになりましたが、震災から時間を経ずに訪問できていればレスキューすることができた資料があったかもしれません。また、このような災害に遭う以前に地域の文化財の残存状況が把握できていれば、より迅速で効率的なレスキューができたとも思われました。これまでの活動の中でも明らかになっていますが、これらの点は今後の活動に広く活かされるべき課題となるでしょう。

また、仙台への帰路、鳴瀬川河口の野蒜築港跡を視察しましたが、石積みの護岸はところどころで崩れ、応急の土のうが積まれたところも散見され、築港の痕跡も一部では消失していることも懸念される状況でした。(右絵:津波でえぐられた堤防)


自衛隊による捜索活動、瓦礫の撤去作業もまだまだ続いているような状態ですが、このような史跡被害の確認もいずれは求められることと思いつつ現地を後にしました。

 (左絵:被災した野蒜築港の遺構)







 133号(2010年6月14日)

斎藤報恩会書庫の蔵書レスキュー          事務局・佐藤大介

今回の震災で被災した、財団法人斎藤報恩会書庫の蔵書レスキューを、6月20日月曜、21日火曜に実施します。つきましては、ボランティアを3名程度募集いたします。直前のご案内となり恐縮ですが、ご協力いただける方は、折り返し事務局までご返信ください。

<要項>
■実施日時
・6月20日 月曜日 午前9時30分〜5時頃
・6月21日 火曜日 午前9時30分〜5時頃

*20日の進捗状況により、21日は作業を行わない可能性もあります。

■集合時間・場所 ・6月20日 月曜日 午前9時 斎藤報恩会現地集合
 仙台市青葉区大町2−10−14 仙台パークサイドビル2階  http://www.saitoho-on.com/news1.html


■作業の内容
・斎藤報恩会書庫内の震災で破損した書棚から、配架されていた書籍を一時搬出する。


■募集人員・3名程度

<注意事項>
 1.ご自身で傷害保険かボランティア保険等にご加入ください。
 2.ヘルメットをお持ちの方は持参してください。お持ちでない方は事務局で
用意します。
 3.汚れてもよい服装でおいでください。
 4.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
 5.昼食と飲み物は持参して下さい。
 6. 宿泊先については各自で確保してください。


■締切 6月16日 木曜日

■申込書
-----------------------------------
氏名:
所属:
メールアドレス:
住所:
電話番号:
参加:20日(  ) 21日(  )
------------------------------------
*上記の情報は、今回のレスキューに必要な情報収集および今後の活動案内など
のために使用します。



132号(2011年6月14日)

 東日本大震災

  「瑞雲」の下で − 気仙沼市唐桑町の被災古建築保全活動


宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。震災発生から三ヶ月が過ぎました。徐々に復興への歩みが始まっていますが、沿岸部を中心に被災地は依然として厳しい状況が続いております。

今回は、気仙沼市唐桑町での被災古建築保全活動に関するレポートです。6月7日と8日の両日、現地での活動を実施しました。       (右絵:蔵の壁に貼ったブルーシートの調整をする)

今回おうかがいしたのは、以前に宮城資料ネットで古文書資料の保全活動を行った個人宅です。今回の震災を受け、4月30日に被災状況の確認におうかがいしました。お宅の所在する地区も津波で壊滅的な被害を受けておりましたが、幸い同家は被災を免れ、古文書資料も無事保管されていました。古文書が保管されていた土蔵も、柱などの構造には大きな問題は見られませんでした。しかし、土蔵の中が見えてしまうほどの土壁の崩落が二箇所でみられ、収蔵してある古文書資料が雨で濡れてしまう心配がありました。そこで、30日には雨に濡れない場所に古文書を移動する一方、壁にブルーシートを貼り付ける応急処置を行いました。

一方、前回の調査後、5月末の台風2号に伴う豪雨と強風により、応急処置を行った壁の破損と、それに伴う古文書資料の水濡れが懸念されました。また、崩落した壁土によって床下の通気が遮断され柱が腐朽していく可能性があり、こちらの対応も必要でした。(右絵:崩落した壁土を掘り起こす)

あわせて、前回の調査では、明治30年代前後に建てられた母屋や土蔵などの施設を、周辺の地形など含めた記録化を行いたい旨を提案し、ご了承をいただきました。これについては宮城資料ネット建築班の佐藤敏宏氏が、東京や金沢、関西地区の建築士や建築専攻の学生による調査チームを編成し、7月に実施することとなりました。今回の活動は、その事前調査も兼ねています。先遣隊として、東京大学生産技術研究所講師の太田浩史氏と、ゼミ生など8名が参加しました。

建物保全は、崩落した土をスコップなどで掘り起こしてガラ袋に詰め込む作業です。この壁土は、将来条件が整った場合には修覆に利用することもできます。日頃馴れない作業で、手のひらの皮はすりむけ、ひざや腰など体中が痛くなりました。しかし、壁土は高さ50センチ、長さ10メートルほどにわたって積もっているため、これを2日間ですべて撤去し保全することはできませんでした。今回は、2メートルほど掘り進んで、文書が保管された土蔵東側の床下への通気を確保したところで作業を終えました。これと平行して、土蔵の調査も実施し、文書が保管されていた東側部分の実測を終えました。

その一方、地域の目下の課題は、どのように地域を復興していくかということです。行政区長も勤められている御当主からは、ご自身の先祖や地域の人々が何百年ものあいだ海に関わって生活してきたことを踏まえて、今後の復興を考えたいというお話がありました。今回は私たちや留学生も含む東京からの参加者に、自宅や地域の様子を熱心にご案内いただきましたが、唐桑の自然環境や災害後の現状と課題を知ってほしいという御当主の思いに触れることとなりました。 (右絵:壁土を袋に入れて保管する)

 御当主のご意向に沿った形での復興プラン作りへの関与は、歴史資料保全の分野としては、これまでの調査データの提供などに限定されると思われます。一方、私たちの活動もふくめ、これまでの歴史的な調査成果がどのように反映されるかを見守ることは、研究成果の社会還元という課題と決して無関係ではありません。気仙沼市唐桑での取り組みは、分野横断による地域の記録とその社会還元を考える上で、一つのモデルケースとなるのではないかと個人的には考えております。

今回の調査中には、「瑞雲」(彩雲)が見られました。古くから吉兆のしるしとされてきた大気の光学現象です。御当主からは、大きな災害の後で見られると伝えられてきたが、今回も大津波の後から見られるようになった、これから明るい方向に向かう兆しではないか、というお話がありました。唐桑での復興に向けた取り組みが、そこに住む方々の意向を踏まえ、前向きな方向で進んでいくことを強く願わざるにはいられません。


 131号 (2011年6月09日)

東日本大震災 南三陸町志津川での歴史資料保全活動

 宮城資料ネット事務局の天野真志です。6月1日(水)、南三陸町志津川で歴史資料保全活動を実施しました。保全対象となったE家は、母屋が元禄期に建てられた由緒のあるお宅でしたが、今回の津波による被害で、お宅の大部分は流されてしまいました。ご当主によると、残された母屋の部材などについて諸方と交渉しているなかで、宮城資料ネットの活動について紹介されたそうです。その後、ご当主から事務局に所蔵資料のレスキュー要請が寄せられ、今回の訪問となりました。 (右絵:被災した母屋の状況)

 事務局がお宅を訪問すると、茅葺きの母屋が内部を津波で大きくえぐられた状態で残っていました。大事なものについては震災後ご当主が探して集められていたようで、ご当主によって応急処置が施された江戸時代の古文書類については、ほとんどが乾いた状態でした。ただ、母屋のなかをみてみると、近代にはいって同家が携わった、青年会の書類や養蚕事業に関わる記録などが散乱しておりました。これらについて、可能な限り拾い集め、保全措置をおこなうことにしました。
今回は、震災後はじめておこなった志津川での保全活動でした。数日前に被災地を襲った豪雨の影響で、大きな水たまりが確認され、地滑りなどさらなる被害が懸念される状況でした。

 ご当主にお話を伺っていると、今回の震災で、これまで経営してきた事業は壊滅的被害をうけ、機材などもほとんどが流されてしまったそうで、今後生活していくために、国や自治体からどのような支援があるのかいまだ分からないとのことでした。そうしたなかでも、代々受け継いだ家屋や古文書類について、何らかのかたちで残していきたいとの思いで事務局に相談をもちかけていただきました。 (右絵:資料の状況を確認する)

被災地支援のあり方について、様々な考えがあるかとは思います。そうしたなかで、それぞれのお宅に伝わった歴史や記憶を、後世に永く伝えていくお手伝いをすることが、我々なりの被災地支援であると考えております。震災から3ヶ月が経過しましたが、県内各地からレスキューの要請が毎日のように事務局に届けられています。少しでも多くの歴史を保全していくため、出来る限りのお手伝いをしていきたいと思います。これまでも多くの皆様にご助力をいただきました。長い道のりになると思いますが、今後ともご支援、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。


130号(2011年6月1日)

ボランティア急募
宮城県亘理町での資料レスキュー

 今回の津波で被災した、宮城県亘理町での資料レスキューを実施します。つき
ましては、ボランティアの方を5名程度募集いたします。下記の要項にあるよう
に平日の活動となりますが、ご協力の程よろしくお願い申し上げます。


■実施日時
・6月10日 金曜日 午前10時頃〜

*集合場所などは参加お申し込みの方に別途ご案内いたします。

 
■作業の内容
・宮城県亘理町で被災した個人宅からの資料搬出
*和箪笥や長持の搬出などの力仕事を伴います。


■募集人員
・5名程度

<注意事項>
 現場の周辺はがれきの撤去作業が進行中です。下記の点にご留意ください。

 1.ご自身で傷害保険かボランティア保険等にご加入ください。
 2.ヘルメットをお持ちの方は持参してください。お持ちでない方は事務局で
用意します。
 3.できるだけ安全靴を着用願います。
 4.汚れてもよい服装でおいでください。
 5.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
 6.昼食と飲み物は持参して下さい。
 7. 宿泊先については各自で確保してください。


■締切 6月7日 火曜日

■申込書
-----------------------------------
氏名:
所属:
メールアドレス:
住所:
電話番号:
------------------------------------
*上記の情報は、今回のレスキューに必要な情報収集および今後の活動案内など
のために使用します。



129号(2011年6月2日)

東日本大震災
伝統と学びの記録を保全する−宮城県農業高校

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。5月29日と30日の両日、宮城県名取市にある宮城県農業高等学校同窓会所蔵の蔵書資料レスキューを実施しました。同校および同窓会ご協力と、神戸の歴史資料ネットワーク(史料ネット)および山形資料ネットからの応援を得ての活動となりました。わせて、今回は文化財救援委員会の現地対策本部の尽力で、今回のレスキュー関係者の方々にこの場を借りてあつく御礼申し上げます。

 今回の活動は4月25日から27日まで実施した活動に続く第二次のレスキューとなります。前回の活動についてはネットニュース115号をごらんください。

■5月29日 宮城県農業高校

 
 資料のクリーニング作業(28日)
 
 資料の水洗い(30日)
 宮城県農業高校は、校舎一階まで津波が浸水しました。前回の活動に比べるとがれきの撤去が進んでいましたが、その分建物のあった場所の基礎があらわになったことで、改めて被害の甚大さを認識させられました。

 今回レスキュー対象となったのは、前回の活動中に、保管されていた百周年記念会館一階の倉庫内で確認された水損した蔵書と、戦前のものも含む写真およびアルバムです。泥に埋もれていた資料は水濡れがひどく、一旦時間をおいて陰干ししていました。これらの資料について、まずはクリーニングと梱包作業を行うこととなりました。

 クリーニングは、刷毛や竹べらを用いて、資料に付着した泥を落としていきます。この時、カビの生えているものはエタノールで拭き取っていきます。その後、処理方法の異なる和綴じと洋書を分類した上で箱詰めをしました。一方、写真資料はアルバムや写真についた汚れを丁寧に落としたり、袋に入ったネガフィルムの取り出しを行いました。午後1時から3時間ほどの作業で全体の3分の2ほどの処理を終え、段ボール20箱ほどになった資料を、現地から一旦仙台市博物館に搬入しました。


■5月30日 仙台市向田資料収蔵庫

 台風2号の接近により5月としては記録的な豪雨となった30日は、関係機関のご尽力により作業場所として提供された仙台市向田資料収蔵庫での作業となりました。前日に引き続き、日中いっぱいかけて資料の泥落としを行うとともに、一部の和綴じ本は水洗いと吸水乾燥も実施しました。ネガフィルムについてはぬるま湯でつけ置き洗いし、その後自然乾燥を行いました。
 
 冷凍倉庫への搬入(30日)
 
写真を乾かす(30日)

 その後、凍結乾燥処理を行う史料は、冷凍処理の協力企業である岩沼市のニチレイロジスティクス東北・仙台南物流センターへ搬入しました。仙台空港にほど近い同社の回りは津波で折れ曲がったフェンスやがれきも多く、地震で砕けた路面は冠水し、通行もままならない箇所がありました。空港南の倉庫群は、一階部分のシャッターが津波で破損したまま、それでも物流回復のため営業が再開されていました。ここに資料を搬入し、今回水損資料の処理を行う奈良文化財研究所の協力企業である奈良市場冷蔵株式会社(大和郡山市)に向け発送されることになります。全国から参加したボランティアと、救援委員会および協力企業の連携により、今回のレスキューを効率よく進めることができました。

 なお凍結乾燥処理のできない写真資料は、神戸の史料ネットメンバー2名が全体作業終了後、仙台の事務室で午後10時近くまで応急処置の作業を行いました。

 今回の活動で、蔵書及び関係資料の被災地での応急処置及び搬出は一段落することとなりました。今後は奈良文化財研究所や、前回の搬入先である東北芸術工科大学での乾燥処理を行ったのち、移転予定の新校舎で保管されることになります。

 レスキュー対象となった和綴じ本には、農業高校の前身である「宮城農事講習所」(明治14・1881年設立)の蔵書印が押されたものもあり、現在の仙台市太白区根岸にあった旧仙台藩茶園の敷地近くに設立された同校の伝統を示す資料だといえます。写真には戦前以来の学校行事や同窓会の活動が記録されていました。今回の資料レスキューが、同校の伝統の継承の一助ともなれば幸いであると感じた次第です。



128号(2011年5月28日)

東日本大震災
残され、伝えられる開発の証−仙台市


 事務局の佐藤大介です。今回は仙台市における保全活動の報告です。

 仙台市の沿岸部は、本ニュース121号の栗原伸一郎さんから報告があったように、今回の津波で大きな被害を受けました。宮城資料ネットでも博物館や市史編さん室と連携して仙台市域での活動に取り組んでいますが、その中で5月10日、同地域にお住まいの方から海水で濡れた古文書の応急処置について相談をいただきました。ご自宅をボランティアに依頼して後片付けをしていた際、古文書の入った文箱が見つかったということでした。私たちの活動については知り合いの方から教えていただいたという事で、その日の夜に史料を直接事務局に持ってきていただきました。
 
事務局に持ち込まれた古文書
 
 エタノール噴霧後の吸水作業

 黒塗りの文箱は、ちょうどA4版のノートが収まるほどの大きさで、中には30点ほどの古文書や巻物がぎっしりと収められていました。ご先祖は伊達政宗に武芸の指南役として召し抱えられ、現在お住まいの地を与えられたということでしたが、まさしくそのことを証明する内容の史料でした。幸い、水濡れの程度は比較的軽かったので、事務局でエタノールを噴霧した上で乾燥することにしました。

 一方、古いものを置いていた納屋は津波で流されてしまったが、いくつか残ったものはご自宅に置いてある、実際に被災した地域の様子を現場で説明してもいいですよ、というお話がありましたので、大変な状況とは知りつつも、お言葉に甘えて5月16日に現地を訪問させていただくことにしました。当日は仙台市歴史民俗資料館の畑井洋樹学芸員と事務局3名でおうかがいしました。

 海沿いの集落に向かう途中は、これまで訪れた被災地と同様、水田の中にまだ多くのがれきや乗用車などが放置されたままになっていました。江戸時代初め以来という鈎曲の道筋が残されている集落の家屋はもとの形を留めているものも多く、海岸沿いの防潮林が津波の威力をある程度押さえたという報告を裏付けるものかと思われました。それでも、大半は一階部分が押し流されたり、窓ガラスや壁に浸水した跡が残されており、犠牲者を収容したことを示す白い「×」印も目につきました。

 御当主によれば、文箱は普段床の間に置いてあったが、津波で床が抜けてそのまま下に落ちていた、家が壊れてしまうような津波だったのによく流されずに残っていたと思う、とのことでした。今回の史料も奇跡的に残されたといえます。また御当主のお母様からは、この辺りに大きな津波が来たという話は全く聞いたことがない、去年のチリ地震のときも警報は出たが津波が来なかったので今回も大丈夫だと思っていた、孫と一緒に避難したが一人だったらどうなったか、というお話をおうかがいしました。ご自宅には古い書類などは確認できませんでしたが、災害当時の状況や今後の復興に向けた思いなど、貴重なお話をおうかがいすることができました。

 今後は移転などにより、同家が暮らした江戸時代初期以来の集落が消滅する可能性があるということです。しかしその場合でも、これまでの集落の歴史をきちんと調べ、新しいまち作りはその成果をきちんと踏まえたものとしたい、という御当主のご意向をおうかがいしました。

 今回保全した古文書には、江戸時代初めからの家の由緒に加え、地域づくりのよりどころという新たな意味が加わることになりました。お預かりした史料は全点の撮影と中性紙封筒への袋詰めを終えています。今回保全した史料をどのように活用してゆくか、集落の歴史調査という事も含め、地域の方や関係機関とともに考えていきたいと思います。


127号(2011年5月26日)

石巻文化センターにおける文化財レスキュー


           東北大学大学院生 関博充

 5月15日、現地は浜風が強かったが、天候に恵まれた。この日は、宮城資料ネットから総勢21名がボランティアに参加した。以下に、その活動概要を報告する。

 石巻文化センターは、石巻港に注ぐ旧北上川の河口近くにあり、海は目と鼻の先である。建物の周りには、震災から2ヶ月経った今でも、木材や建材、自家用車からなる瓦礫が散在していた。押し寄せた津波は、センター1階フロアの窓や扉を破壊し、室内の什器や蔵書・資料を移動させだけでなく、土砂や材木、パルプ、そして軽自動車までをも館内に流し込んでいた。ほとんど手つかずの状態に見える館内のガラス窓や壁に残る痕跡から3m近く浸水したことが伺えた。震災時、館内にいた職員の方の話によれば、水が引くまで4日近くかかったそうだ。現在でもまだ電気、水などのライフラインは復旧していない。その中でのレスキューとなった。
 
 館内に入り込んだがれきの撤去
 
 泥に浸かった資料の救出

 文化財レスキューの第一の目的は、被災した文化財を、保存環境やセキュリティー上、安全な場所に移動させることである。それにはまず館内外の瓦礫や土砂を除去し、移動経路を確保しつつ、資料の存在とその被災状況を把握することが最優先となる。
       
 今回の作業も、屋内に堆積した土砂の除去から始まった。収蔵庫前には土砂や瓦礫が10センチ近く堆積し、扉の開閉を困難にしていた。津波が残す堆積物は、海から離れるに従い土やゴミを含み、ヘドロ化するものであるが、ここは海に近接していることが幸いし、ほとんどが海砂であった。暗闇での作業ではあったが、おおよそ乾燥しており、作業はしやすい。1階ロビーに堆積した土砂も除去し、その中から、事務室や書庫から流れ出した資料や図書を救出し、2階へと避難させた。

 午後は、収蔵庫内で海水、土砂、パルプにまみれた民俗資料を、一時的に屋外に運び出し、乾燥させる作業となった。塩水を含んだパルプや砂が多くの資料に付着しており、特に金属製品は、付着物の周囲で錆化が進行していた。いち早く純水で洗浄し、塩分を除去する必要があるが、現状では洗浄用の水も、洗浄後の保管場所も確保が難しい。最終的には、それらが可能な場所へ移動させ処理しなければならないが、今回は、資料全ての救出には至らなかったので、再度施設内で保管することになった。まだまだ資料は残っており、運び出しにも、その後の処理にも人手と時間を要することは間違いない。今後、継続的にボランティア活動を行っていく必要性を強く感じながら、この日の作業は終了した。


 作業終了後、津波に耐えた本間家の土蔵(ネット・ニュース118号参照のこと)を見学できた。壁や屋根に残る傷跡は痛々しいが、高く積み上げられた瓦礫の中に、どっしりと構える土蔵は、とても頼もしく見えた。石巻復興のシンボルとして保存できることを切望する。

(追記)
 石巻文化センターの津波被災資料は、その後宮城県内各地の博物館に一時搬出され、専門家による応急処置が進められています。(事務局・佐藤大介)

*参考 2011年5月24日河北新報朝刊 「石巻の宝を守れ 全国から学芸員、奮闘「必ず残す」」
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/05/20110524t13011.htm  *リンク切れ



126号(2011年5月25日)

ボランティア急募
宮城県農業高等学校蔵書レスキュー

※募集は終了しました。

今回の津波で被災した宮城県農業高等学校蔵書のレスキューを、5月29日日曜日、5月30日月曜日の両日実施いたします。つきましては、ボランティアを15名程度募集いたします。直前の募集となりますが、多くの方のご参加をよろしくお願い申し上げます。


■作業の内容
・宮城県農業高等学校水損資料の応急処置

■募集要項
◇募集人員:15人程度
◇集合時間・場所:
 ・5月29日 午前11時 仙台市博物館駐車場
 ・5月30日 午前9時 同上

*公共交通機関 仙台市営バス 仙台駅前9番乗り場
・「宮教大・青葉台行」ないし「青葉通経由動物公園循環」、「博物館国際センター前」下車 徒歩3分

http://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/guide/access/index.html


*作業場所までは事務局が用意する車両で移動します。

◇スケジュール
<5月29日>
・12時半頃、宮城県農業高校(宮城県名取市下増田字広浦20-1)到着
・13時半〜15時半、宮城県農業高校同窓会館1階部分から汚損資料を搬出
・16時 仙台市博物館(仙台市青葉区川内26番地)へ搬入。トリアージ。17時半
作業終了後解散

<5月30日>
・9時 仙台市博物館に集合。向田文化財整理収蔵室(仙台市宮城野区高砂二丁
目22)へ搬出準備
・10時 向田文化財整理収蔵室到着。資料洗浄、資料梱包
・16時 株式会社ニチレイ・ロジスティクス東北仙台南物流センター(宮城県岩
沼市空港南4丁目1−2)に搬入。現地で解散


<注意事項>
 初日に活動する宮城県農業高等学校は津波で1階部分が浸水しました。活動場所は泥が積もるなど厳しい環境にありますので、下記の点にご留意ください。

 1.ご自身で傷害保険かボランティア保険等にご加入ください。
 2.ヘルメットをお持ちの方は持参してください。お持ちでない方は事務局で用意します。
 3.できるだけ安全靴を着用願います(特に29日参加の方)。
 4.汚れてもよい服装でおいでください。
 5.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
 6.昼食と飲み物は持参して下さい。
 7. 宿泊先については各自で確保してください(両日参加される方)。

■締切 5月27日金曜日 午後5時

■申込書
-----------------------------------
氏名:
所属:
メールアドレス:
住所:
電話番号:
参加希望日(○を付けてください)
 ・29日
 ・30日
------------------------------------
*上記の情報は、今回のレスキューおよびメールニュース配信に使用します。



125号(2011年5月24日)

震災の傷跡から語りかける、新たな歴史資料群
 ―栗原市・大崎市の被害調査から―

 宮城資料ネット事務局の蝦名です。

 震災から2ヶ月が過ぎ、梅雨の季節が近づいてきました。事務局には毎日のように資料レスキューの要請が寄せられ、私達も毎日のように県内を飛び回っています。同時に、活動にあたっては多くの方々から、カンパやボランティア参加によるご協力とご声援をいただいています。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 5月11日は栗原市と大崎市方面の被災状況を調査に伺いました。ふたつの市がある宮城県北部は、今回の東日本大震災で最も揺れの大きい震度7を記録した地域です。各地で聞いた話では、3月11日の本震のみならず、4月7日に発生した震度6強を観測する余震でも大きな被害を受けたとのことです。
 
 襖の下張りから現れた
戊辰戦争期の古文書

 最初に訪れた栗原市O家は、地震で母屋が甚大な被害をうけていました。応急危険度判定では「危険」と診断され、地盤の沈下により家屋の基礎が傾き、家屋内も土壁が崩落するなど深刻な被害がみられました。その中で、破れた襖の裏に古文書が確認され、戊辰戦争時の軍費調達に関わる文書が確認されました。母屋裏には、駒形根神社から分祀された屋敷神の社と土蔵がありました。とりわけ土蔵は随所に素晴らしい鏝絵(こて・え)の装飾がされた壮麗なものでしたが、側面の土壁が全面的に崩落する被害をうけていました。ここでは明治から昭和にかけて、同家を中心におこなわれていた講に関する文書群や、和本類が保管されていました。

 次に訪れたのは、大崎市のM家でした。今回の震災では、土蔵の土壁がいたる所で崩落しており、文書蔵2階は、震災の影響で収蔵物が崩落していましたが、随所に大正期から昭和初期にかけての経営に関わる帳簿や書類が確認されました。その量が膨大であるため、今回は資料の被災状況を確認するのみでしたが、今後資料を分析することで、同家の経営の歴史が解明されるものと思われます。
 
 襖右上部からのぞく古文書

 最後に訪れたのは、大崎市古川地区のS家でした。近代に入ってからの分家なので歴史的な資料はないだろう、というお話でした。しかし、被災状況を調査させていただく中で、蔵の中に保管されていた襖の破れ目から、下張りに近世の古文書が確認されました。ご当主のお話では、その襖は本家から譲り受けたものであるということでした。文書という形ではなく、襖という形で歴史資料が移動する。この事実に、私自身少なからぬ驚きを覚えました。

 東日本大震災が地域に甚大な被害を与えたことは言うまでもありません。一方で、震災によって砕かれた襖から新たな歴史資料群が発見されるように、その傷跡の中にも地域再生の芽が隠されています。現在、震災被害からの復旧活動が一段落した地域では、震災によって被害をうけた歴史的な建造物の解体や撤去が急速に進んでいます。復興に向けた歩みである以上、それを止める事は困難です。我々が出来ることは、限られた時間の中で、ひとつでも多くの資料をレスキューすること、それが将来的な地域再生の一助になると考えています。


124号(2011年5月19日)

東日本大震災
流れ着いた古文書箱−宮城県女川町

 事務局の佐藤大介です。5月12日木曜日、事務局では女川町教育委員会文化財保護係の依頼を受け、今回の大津波で水損した古文書史料の引き取りにうかがいました。

 対象となった古文書は、町の文化財に指定されていた江戸時代の古文書の一部です。3月11日の大津波で、所蔵者のご自宅は、古文書を収めていた土蔵も含めすべての施設が跡形もなく消滅してしまいました。集落全体も壊滅しました(航空写真による)。幸い所蔵者の方は無事で、現在は町外に避難されています。

 この古文書が見つかった経緯は、担当者の方によれば次の通りです。古文書が町役場に届けられたのは、津波から40日あまりが経過した4月28日のことです。届けてくださったのは、所蔵者宅と入り江を挟んで対岸にある集落の方です。この地区も津波で壊滅しました。住民の方々は高台にある避難所から日々集落に降りて、自宅のあった場所などで物品を捜索されていました。その中で、あるお宅の敷地に流れ着いていた茶箱一箱から古文書が見つかったのです。貴重なものだと判断されたその家の方は、偶然集落を通りかかった運送業者に、茶箱を町教育委員会に届けるよう託したそうです。女川町中心部の町役場も津波で壊滅したため、古文書は役場の避難先となっている女川町総合運動場に届けられたのでした。

 古文書を託された町では応急処置を行っていましたが、避難所対応が最優先されるという事情もあり、石巻古文書の会の庄司惠一さんを通じて5月7日に本会にレスキュー要請がありました。

 私事ながら、引き取り当日の木曜日は大学の非常勤講師一コマを受け持っているため、当日明け方まで講義の準備を行い、午前中の講義を済ませた後、東京から駆けつけた本会会員の高橋美貴さんとともに女川町に急行しました。
 
 がれきが残ったままの女川町中心部

 女川町に向かう途中の石巻市湊地区や渡波地区は、がれき撤去もまだ余り進んでいません。女川町中心部は、報道でもたびたび紹介されたように鉄筋コンクリートのビルが根こそぎ倒れるなど壊滅的な状況です。高台にある町総合運動場には大勢の避難者がいらっしゃいました。

 避難所対応などの合間に私たちを迎えてくださった担当者の方は、一部とはいえ古文書が見つかってよかったと、涙ぐみながら私たちに話してくれました。茶箱の中の封筒は、津波から2ヶ月以上立ってもまだ濡れたままで、一部にカビが生えかけていました。所蔵者の方からは町役場を通じて私たちが保全を行うことに了承をいただいているとのことでしたので、私たちは茶箱をお預かりし、すぐに仙台に引き返しました。これらの資料は、ネットニュース120号・121号で紹介した大船渡市S家資料や、5月10日に事務局に持ち込まれた石巻市内の水損古文書とともに冷凍処理を行うため、14日に今回の津波による水損資料の処理を引き受けていただいている奈良文化財研究所の協力企業である奈良市場冷蔵株式会社に向け発送されました。所蔵者の方とは後日連絡が取れ、古文書のことはあきらめていたが少しでも残ってよかった、応急処置をしてくれてありがたいとのお話がありました。
   
 古文書が入っていた茶箱(左)とふたを開けたところ(右)

 古文書が入っていた茶箱はどこにでもあるもので、ふたが密閉されていた様子もありません。さらに搬出しようと持ち上げたところ、底の一部の板が抜けそうになっていました。鉄筋コンクリートのビルもなぎ倒した津波の中、どうして茶箱が壊れたり、ふたが外れてしまわなかったのか不思議でなりません。担当者の方とも、この古文書が残ったのは奇跡としかいいようがないという意見で一致しました。

 
 事務局で状態を確認する
 しかし、なによりも強調したいのは、今回の古文書が、自宅の流出、集落の壊滅という過酷な状況の中にある地元の住民の方から届けられたという事です。自らの生活の立て直しさえ困難な状況の中、自らの所蔵品ではないにもかかわらず、見つかった古文書資料の価値に心を留め、適切な対応をしてくださったということには、正直感動を禁じ得ません。地域の人々によって命をつなぎ止められた古文書史料の保全に関われることは大変な誇りであるとともに、この史料を「千年後」まで伝えていくため、全力を尽くさなければならないという責任の重さも強く感じました。

 町の担当者の方々は、高台や島にある資料は無事なので、避難者対応の合間を見ながら、できるだけ早く自分たちの手で状況を確認し対応したいということでした。本法人としてもこのような思いに応え、引き続き女川町での保全活動に協力していくことにしております。



123号(2011年5月18日)

宮城歴史資料保全ネットワークの文化財レスキューに参加して

                                  京都造形芸術大学 大林 賢太郎

 宮城歴史資料保全ネットワークの活動は時折発信されるニュースレターで知っていました。C家の書画の修復についての呼びかけに対して、専門家として処置の緊急性があるかどうかを調査する事を申し出ました。レンタカーで現地へ行く手配を進めていると、平川先生からそのお宅の近くでレスキューの申し出が1件あったので、そちらにも対応して欲しい旨の連絡がありました。どうせ車で行くのならとお引き受けし、レンタカーをバンタイプのものに変更しました。

■5月6日

 ANAの始発便(大阪7時15分発)で仙台入りしました。空港近くではまだ信号が復旧しておらず、警視庁の警官が交通整理をしていましたが、しばらく行くと信号も交通も普段通りに見えました。仙台駅でレンタカーを借りて宮城歴史資料保全ネットワークの事務局に立ち寄ってレスキュー用の資材を受け取り11時過ぎに出発しました。
 
 津波で水損したS家文書
(金野聡子氏提供)

●S家文化財レスキュー
 現地在住の紙本修復家金野聡子氏が既に整理梱包を進めてくださっていたので、到着後は所有者の方に確認していただきながら箱に番号を付けていきました。段ボール箱・木箱等合わせて16箱(大船渡市の地元近代資料、太平洋セメントや染色などの関係資料)を箱詰めし、バンに積み込みました。

●C家コンディション調査
 襖は以前に見せていただいた写真のとおりの状態でした。しかし、その場所を触ってみた瞬間、状況は一変しました。まだ濡れていたのです。週明けからは気温が上昇するとのことでもあり、処置を急がなければと考えるものの、ここで乾燥処置をしたものか、どこか近隣まで運んで処置するべきか。残念ながら結論は出ませんでした。仙台に帰って相談の上で再度連絡をすると言うことでその日は引き上げました。

■5月7日

●宮城歴史資料ネットワークでS家資料の応急処置
 ボランティアに集まってもらって作業する日だったのですが、急遽、昨晩移送したS家資料の開梱、泥落とし、乾燥処置を行いました。現地では開けられなかった家紋入りの木箱の中には江戸期の古文書が整理された状態で納められていました。(この日の作業は宮城資料ネット・ニュース120号に掲載されています)
 こうした作業と並行して平川先生とも相談し、他にもいくらか問い合わせてみた結果、C家の現在乾いていない襖は緊急の処置を要するが現地や近隣での処置は難しいと判断しました。襖の本紙だけを京都に移送して洗浄乾燥処置をした後に返送して、建物修復の際に貼り込んでもらうことにしました。屏風に関しては画面側が既に乾燥しており、剥落止め処置やさらなる洗浄処置が必要ではありますが、襖に比べると緊急性が低いと判断し、移送は次の機会としました。

■5月8日

●C家文化財レスキュー
 
 墨書を襖から切り取る
(撮影:芳賀満)

 東北大学の芳賀満氏が同道し、仙台からバンで大船渡市へ向かいました。作業に必要な養生紙は東京のNPO文化財保存支援機構から提供され八木三香氏に現地に届けてもらいました。本日も現地で金野氏がお手伝いくださり、午後から襖を取り外す作業を行いました。襖自体は鴨居が落ちており、取り外せませんでしたので、本紙部分を切り取って浮けから外すことにしました。8枚全てを取り外し大きく巻いて梱包して輸送業者を使って京都へ発送しました。(翌日、京都で受け取り、処置を開始するまでカビ等が発生しないように低温保存で保管しています。)

 今回一番驚いたのは、塩水をかぶった紙資料は乾きにくいと言うことです。既に震災から2ヶ月が経っていますが、未だに緊急処置の対象のものが存在するということです。塩水をかぶったことによってカビは生えにくいと言われていますが、実際にはひどいものもそれなりにあります。

 宮城ネットの方々も被災者でありながらの活動で、人的にも時間的にも余裕がないように思います。既に山形の東北芸術工科大学での処置などは行われていますが、今後も続く事は確実ですから、もっと各地に分散しての処置協力が欠かせません。今回の S家、C家資料は関西へ移送しての処置の手始めとなりました。

 文化財レスキュー事業は被災文化財を安全な場所(余震等でさらなる被害を受けない、盗難等の被害に遭わない)に移動保管する事業です。処置も基本的には移動、保管するために必要なものに限られます。その後の処置や修理はどちらかというと復興事業に属すとされますが、その方法や費用等については具体的には何も決まっていません。過去の復興事業でもそういった修復が行われた例はかなり稀で、特に未指定品の書画ではあまり聞きません。今後はそういった事業について考えていくことも必要であると感じます。この先の予定が決まらないとここで行う応急処置もどこまでにするかも決めにくいという問題があります。

(追記)
 岩手県大船渡市の水損資料レスキューのレポートです。大林さんは仙台から往復8時間かかる現地まで二往復され、水損資料の現地での応急処置と搬出をお願いしました。あわせて、5月7・8日に実施された応急処置作業でもご指導いただきました。この場を借りて御礼申し上げます。(事務局・佐藤大介)



122号(2011年5月17日)

建築チーム 岩沼市・石巻市での古建築調査

 宮城資料ネットで建築を担当させていただいている佐藤敏宏です。5月7日と8日の活動内容を報告させていただきます。

 両日は金沢より古建築の改修や保全を生業としている方々に再び支援していただきまして、岩沼市内に在る古建築の実測を行いました。前回も来ていただいた橋本浩司さんと、若い2人の伝統建築士である野田直希さん、吉田健二さんでした。三名は6日深夜に金沢を出発し、事務局のある東北大学川内キャンパスに7日午前8時半に到着されました。事務局で簡単な打ち合わせを行った後、休息もそこそこに一同は岩沼市に向かいました。

 現地に到着すると、御当主からはすでに主屋の建築調査が実施され、平面図が作成済みであることを知らされました。そこで、今回はイショウグラと呼ばれる土蔵の詳細な実測に収集することにしました。この土蔵は、前回4月14日の活動(メールニュース111・112号を参照)で、建築チームにより応急処置のブルーシートを貼り付けたものです。測量では吉田、野田が内部を、佐藤と橋本が外部を実測することにしました。昼食の時間を含めおおよそ8時間で寸法を採取し、野帳に記すことができました。測量の様子と感想を聞き取り、動画をつくり公開しましたので参照ください。

 実測後、詳細な図面をかき上げなければ測量の意義は発生しません。引き続き精密な図面を書くよう指示を出しました。

 今回測量したイショウグラが仮に解体されたとしても、詳細なデータがあれば再建は可能です。一方、人々と生活や経済とともに建築が在るのが理ですから、実存し続けたとしてもイショウグラの機能を再発明できなければイショウグラ建築そのものは社会から消えていくことになるのは理の当然です。それゆえ、歴史的記述としての実測データが必要であることは理解いただけると思っています。

 今回測量したイショウグラのデータを、人々の関係性を豊かにするために活用し、死蔵されないよう働きかけたいと思います。
 
 
 測量を基に作られた図面
 
 2日間の調査を終えて

 岩沼市で二日間調査を行う予定だったのが一日で終了しましたので、7日は石巻の本間さんを訪ね、4月12日に調査した土蔵周辺のその後を見たり、話を聞き取りつつ挨拶に向かうことにしました。偶然にも本間さんが現場にいらっしゃいましたので、修覆の進み具合や、集めた古い瓦の話などを聞くことができました。解体され瓦礫になった若宮丸の姿を含め、周辺の様子を動画にまとめ公開しましたのでご参照ください。

その後は、津波による被災が甚大激烈な女川の一部の様子を見まわりました。こちらも動画を作りましたのでご参照ください。女川の惨状を写真などに記録したあと、石巻市にある古民家の測量を行いました。

 この古民家については、7日の夜に事務局に調査依頼があったもので、今回の震災で破損したとのことです。事前の情報では、所蔵者の方は家を今後どうされるか迷っておられるとのことでしたが、お話をおうかがいすると、ご家族全員が母屋に愛着があるということがわかりました。そこで調査を行い、完全な復元ではなくとも様々な修理方法がある旨をお伝えしたところ、少しホッとされた様子でした。こちらについては、今後所蔵者の方のご意向に沿って、引き続きご協力することになりました。

 調査日程の変更などありましたが、終わりよければ全てよしの実測部隊の2日間となりました。 みなさん暖かなご支援ありがとうございました。

(追記)
 宮城資料ネット建築チームによる被災調査の報告です。なおこれに先立つ4月30日には気仙沼市唐桑、5月1日には岩手県大船渡市の旧家で土蔵の実測調査と応急処置を行っています。(佐藤大介)


*参考 5月7日・8日動画(外部リンク・佐藤敏宏撮影)
 ・岩沼での被災建築測量 http://www.youtube.com/satoutosihiro#p/u/6/q4K3fYAupjE
 ・本間家土蔵の周辺    http://www.youtube.com/satoutosihiro#p/u/9/KeHzWDHowsY
 ・女川町の状況       http://www.youtube.com/satoutosihiro#p/u/0/Ge--8YcsyH0



121号(2011年5月15日)

東日本大震災
仙台市博物館・市史編さん室の保全活動

 宮城資料ネット会員の栗原伸一郎です。私が勤務する仙台市博物館では、震災以来、宮城資料ネットと連携しながら歴史資料の保全活動に取り組んでいます。博物館市史編さん室の一員である私もこの保全活動に携わることとなりましたので、これまでの活動状況についてご報告いたします。

 これまで仙台市博物館では市史編さん事業などを通して、仙台市内外の旧家・寺社・施設が所蔵する歴史資料を数多く調査してきました。震災直後から仙台市博物館では、これまでの調査先や『秋保町史』『宮城町誌』などといった自治体史に掲載された資料所蔵者をリストアップし、保全活動に備えてきました。4月20日からは、仙台市内の各地域(城下町周辺部の旧村地域)を巡回し、これまでの調査先と未調査ながら資料所蔵が予想される旧家を訪問して、歴史資料の被災状況を調査しています。

 巡回調査では、博物館職員など3・4人が旧家を訪問し、歴史資料の所蔵の有無や保管状況などについて聞き取りを実施するとともに、場合によっては家屋や資料の撮影を行っています。その際、訪問先では、資料保管を呼びかけるチラシや、宮城資料ネットが石巻で実施した保全活動を伝える新聞記事のコピーをお渡しし、地域の歴史遺産を未来に伝えていくことの重要性を説明しています。5月6日までに73箇所の旧家や寺社を訪問しました。

 今回の巡回調査では、通常の調査と異なり、訪問先に対して事前に電話や書面で連絡をしませんでした。今まで調査したことのない所蔵者の場合、こちらが念頭に置く「文化財」や「歴史資料」が何を指しているのか分からないことが多いでしょうから、実際にお会いして説明しなければ、なかなか活動の趣旨を理解してもらえません。また、連絡をした際に先方が訪問自体を拒否すれば、その後の展開が絶たれてしまいます。こうした理由から事前に連絡せずに訪問しましたが、幸い多くの方々に好意的に対応していただきました。お忙しいなか、お話を聞かせていただいた方々に、この場を借りて深く感謝を申し上げます。

 太平洋から奥羽山脈にまで及ぶ広大な仙台市では、津波被害を受けた沿岸部とそれ以外の地域では歴史資料をめぐる状況が大きく異なります。沿岸部の田園地帯にあり、一階が浸水するなど大きな被害を受けた旧家では、資料か何かも分からず、泥を被ったものを棄てているという話を伺いました。また、その近隣の旧家では、ご当主から歴史資料を所蔵しているかのような発言がありましたが、多くを語ってはいただけませんでした。こうした津波の後片付けに追われているお宅では、周囲の居久根に車が押し流されているような光景が広がり、我々も深くお尋ねすることが憚られるような状況でした。

 一方、津波被害がなかった地域では、地震による保管場所の損壊などによって歴史資料を廃棄したという事例が少数ながら確認されました。未調査宅のなかにも、大きな被害を受けている古い家屋や蔵が見受けられることから、今後も今回の地震を契機とした資料廃棄の可能性が想定されます。また、家屋の建て替えや代替わりがあったという旧家では、地震被害とは関わりなく、資料の所在が不明となっている場合もありました。予想はしていましたが、巡回調査を通じて、仙台市内にある歴史資料も非常時・平常時それぞれに発生する事情のために、危機的状況にあることが確認されました。

 今回の訪問先のうち約3分の1は、これまで仙台市博物館で何らかの調査をしています。何十軒というお宅を訪問して強く感じたのは、そうしたお宅では、普段から歴史資料を大切に保管されている方が多いということです。以前に古文書を調査させていただいたある方は、地震によって母屋が大きな被害を受けたため、別の場所で生活せざるを得なくなっていました。しかし、そうした困難な状況であるにも関わらず、古文書を母屋から被害の少なかった蔵に移して保管しておられました。そして、母屋の中から新たに発見された近世・近現代の資料についても、我々がその価値を説明すると、大切に保管したいと話して下さいました。自分が所蔵する歴史資料の内容や価値を認識された方は、今回のような大災害に際しても、その保存に心を配って下さいます。言われ尽くされたことですが、平常時の地道な調査・保全活動が、地域の貴重な歴史遺産・文化遺産を守るための近道であることを実感しました。

 また、今回初めて訪問したお宅でも、新たに歴史資料の存在が確認され、その保管を意識していただける場合も数多くありました。近世期に肝入を務めた旧家では、ご当主は所蔵されている近世文書から家の由緒が分かるかもしれないと思いつつも、自分では解読できないとの悩みをお持ちでした。そのため、博物館で資料整理ができる旨をお伝えすると、大変興味を持たれたご様子でした。また、村役人を務めたと思われる旧家では、今回訪問したことで、所蔵されている屏風や古文書について調査してほしいとの思いを強くされたようでした。

 市内を巡回するなかでは、思わぬ偶然もありました。とある旧家と間違えて訪問してしまったお宅が、明治期に村長を輩出した家だったのです。ご当主は地域の民具の保全に尽力された方で、自宅にも文書資料や道具などが残っているとのことでした。また、調査中に駐車場をお借りしたお店の方と話したところ、そこは大正期に村長を輩出した家で、小学校建設に関わる近代資料をお持ちであるとの情報を得ることができました。こうした方々には、改めて資料調査のお願いをしたいと考えています。

 ただ、巡回調査が全て上手くいったわけではありません。事前に連絡をしていませんので、不在であったお宅もありましたし、在宅中であっても突然の訪問に警戒感や不快感を示されたお宅もありました。家屋を新しくされたあるお宅では、最後まで玄関のドアを開けていただけなかったためインターホン越しでの会話となり、古い門構えが印象的な地域有数の旧家では、「ウチは古い家ではない」と門前払いされてしまいました。また、建物に被害を受けた旧家の方から聞き取りを行い、許可をいただいて家屋などの撮影を始めたところ、帰宅された別の方から調査を許可していないと咎められ、調査が継続できなかったこともありました。

 所蔵資料に対する意識は人それぞれですから、訪問した際に応対して下さる方―ご当主か否か、年配の方か否か、など―によって、不意の訪問者である我々が教えていただける内容も変わってきます。また、平常時でも自家の所蔵品を他人に語ることや写真に撮られることに抵抗感をお持ちの方は、自らが被災者となっている災害時では、そうした思いを更に強くされているでしょう。震災直後の落ち着かない時期では、訪問しても迷惑がられる可能性が高いですが、そうかと言って時間が経ってしまうと、歴史資料が廃棄されている可能性が高くなります。巡回調査を通じて、歴史資料の保存を呼びかけるタイミングや具体的な方法など、改めて災害時における調査の難しさを痛感することにもなりました。

 しかし、失敗を恐れて待っていたのでは、消滅の危機にある歴史資料を救い出すことはできません。こうした巡回調査は今後も継続し、被災資料の情報収集に努めていきたいと思います。今後の状況によっては、レスキュー活動を実施することもあるかと思います。その際は、宮城資料ネット会員の皆様にもご協力をいただきたく、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 なお、この調査活動には、複数名の宮城資料ネット会員(『仙台市史』執筆担当者や仙台市博物館職員)が参加しました。


120号(2011年5月14日)

水損資料の保全作業に参加して

               宮城資料ネット会員 中川 学

 「文書の入った箱のなかに、小魚の死骸があった」。資料保全の作業中に、事務局スタッフの発した言葉が今でも耳に残っている。これはまさに資料が保存された状態のまま、津波の被害を受けたことを示していると思った。
     
   文書箱から見つかった小魚  

 2011年5月7・8日、私は延べ17名のボランティアの一員として、資料ネットの仮事務局が置かれている東北大学川内南キャンパス・文科系総合研究棟にて、資料保全の作業に参加した。以下ではその概要と所感について記したい。

 今回の保全対象は、岩手県大船渡市赤崎町のS家の資料群である。これは前日に資料ネット事務局に運ばれたもので、木箱とダンボールあわせて十数箱という量であった。その多くは海水に浸り、泥にまみれるという津波のダメージを受けており、被害から1ヶ月以上たっていることもあって、カビも発生し始めていた。

 1日目には、車から資料を研究棟1階入り口前のブルーシートの上に運び出し、ナンバリングをした箱ごとにグループを作って作業を開始した。まず、箱から資料を取り出し、大きく2つに分類した。文書の固着がひどいものはトレーに入れた水に軽く浸して揺すり、表面の泥を落としたうえで、カビ防止のエタノールを噴霧した。それらの資料は真空凍結乾燥処理のため、東京・奈良等の機関へ運ばれることとなった。固着がひどくないものについては、丁ごとに泥をはけで落とし、エタノールを噴霧したうえでキッチンペーパーをはさみ、乾燥させるという措置をとった。

       
 泥に浸かった木箱から資料を出す  資料を広げて乾燥する  作業風景(5月8日)  資料の泥を払う

 2日目も継続して作業を進め、乾燥した資料は箱ごとに仮番号を付けて、中性紙封筒に収められた。2日間ですべての資料保全作業を完了することはできなかったが、水損資料の応急措置という目的はほぼ達成されたと思われた。
 
 今回の保全作業でもっとも印象に残ったのは、資料の受けたダメージの深刻さである。私の担当した木箱は泥のなかに資料が埋まっており、竹べらを使って掘り出しても、湿った紙の固まりという状態であった。その当初は、これらを本当に救えるのかという悲観的思いがあったのは事実である。しかし、ダメージの大きい資料に関しては、奈良国立文化財研究所の真空凍結乾燥処理により、早急に保全が実施されることとなった。このような大規模災害に直面して、資料保全のバックアップ体制が諸機関の協力によって構築されたことは、非常に画期的であると感じた。

 私個人にとっては、他のボランティアとともに、水損資料の保全方法を学び、保全作業を経験できたことも非常に有益だった。これからも微力ではあるが、資料の保全作業に取りくんでいきたいと思う。




119号(2011年5月10日)

※募集・活動は終了しました。

石巻文化センター資料レスキューボランティア急募

 宮城資料ネットでは、宮城県文化財課の依頼により。東日本大震災で被災した石巻文化センター(石巻市)所蔵資料のレスキューに参加することになりました。

 つきましては、5月15日(日)の現地における作業への参加者を、10名程度募集いたします。

 申込者が多数の場合には先着順となりますのでご了解ください。なお、遠方からご参加される場合には、宿泊などはご自身でご手配ください。また交通費・宿泊費は、参加者負担となります。

■作業の内容
・石巻市文化センター所蔵資料の搬出作業
 *現地での作業は、レスキュー事業事務局の指示に従って行います。

■募集要項
・募集人員:10人程度
・集合場所:午前8時 仙台市博物館駐車場

*公共交通機関 仙台市営バス 仙台駅前9番乗り場
・「宮教大・青葉台行」ないし「青葉通経由動物公園循環」、「博物館国際センター前」下車 徒歩3分

http://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/guide/access/index.html

<注意事項>
 石巻文化センターは津波で1階に泥水が入りました。また、センター自体の躯体は無事ですが、周辺はがれきの山です。泥のかき出しは終わり、がれきの撤去も始まっておりますが、厳しい環境にあります。下記の点にご留意ください。

 1.ご自身で傷害保険かボランティア保険等にご加入ください。
 2.ヘルメットをお持ちの方は持参してください。お持ちでない方は事務局で用意します。
 3.できるだけ安全靴を着用願います。
 4.汚れてもよい服装でおいでください。
 5.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
 6.昼食と飲み物は持参して下さい。

■締切 5月12日 木曜日 正午まで

■申込書
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氏名:
所属:
メールアドレス:
住所:
電話番号:
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*上記の情報は、今回のレスキュー募集および今後の活動報告配信に使用します。


118号(2011年5月5日)

東日本大震災 石巻市門脇・本間家の被災土蔵をめぐって


                                       斎藤善之(宮城資料ネット副理事長)

(*本紙面では、本間家をH家と表記してまいりましたが、ご当主のご了解を得て実名表記とさせていただきます。)

 
 門脇地区の惨状と本間家の土蔵 4月7日・斎藤秀一氏撮影
 
 石巻市門脇地区に残された1棟の土蔵。押し寄せた津波に耐え、瓦礫に埋もれるようして残ったこの土蔵の2階には多数の歴史資料が無傷で残されていました。

 私たちはこの度の大震災のなか奇蹟的に残ったこの土蔵を、未曾有の大震災の記憶を後世に伝えるためにも歴史遺産として残せないだろうかと考え、その保全に向けた活動を始めています。以下では、この土蔵をめぐる震災前後の経緯を改めてふりかえり、その存在の意義について考えます。

■大震災前の本間家

 本間家は、江戸時代には石巻を代表する千石船の船主として活躍した武山家の流れを継承する家です。武山家は明治時代になると廻船業から撤退しますが、手広く金融業を営むかたわら、三陸商社や米商会社、石巻商業講習社などの設立に関わるなど、当地の産業の近代化に尽力しました。あわせて戸長、町会議員、郡会議員、石巻町長などの公職も歴任しています。

 明治18(1885)年頃、同地の勝又家が所持していた味噌醤油醸造の設備を買い取り、味噌醤油醸造業にも乗り出しました。これは順調に発展し、その後明治30(1897)年頃には、後町に新たに醸造工場を建設しました。これが現在の本間家の敷地となっています。昭和初期に描かれた絵図には当時の同家の繁栄ぶりが描かれています。

 しかしながら昭和元年、武山家の当主の死去によって武山家は断絶し、当主の娘(四女)の嫁ぎ先の本間家が武山家の醸造工場と土地家屋を継承することになりました。その後、本間家による醸造業経営は戦後まで継続していましたが、昭和45(1970)年に廃業となりました。その後もこの敷地と主要建物は残され、本間家の住居となっていましたが、今回の大震災によって、赤丸で囲んだ土蔵以外の建物はすべて倒壊流失してしまいました。

 
 武山商店・本間家の醸造所の景観(昭和初年) 
赤丸で囲んだのは今回の大震災後、唯一残った土蔵
 
 

 なお斎藤は1997年夏頃から本間家との関係をもつようになり、今回残った土蔵の2階に保存されていた武山家の古文書(江戸時代の廻船関係文書)の解読をおこない、それをとりまとめた『石巻湊門脇・武山六右衛門家文書』を2006年に刊行しています。

また絵図では一番奥の山沿いに見える大きな倉庫は、かつての醸造蔵でしたが、石巻千石船の会が中心となって平成9年に製作しされた復元模型船(千石船)の若宮丸の保管庫に使われておりました。

■3月11日大震災発生と本間家

 今回の大震災の津波により、見渡す限りの瓦礫の原となってしまった石巻市門脇地区の様子は、当初は繰り返し流された報道の映像でその様子を窺い知るだけであり、その後、本会の事務局が震災後の衛星写真の分析から沿岸地域の被災状況の把握に勤めましたが、それによると門脇の本間家の一帯は壊滅しており、また本間家の御家族の安否も分かりませんでした。

 その後3月20日頃になって、ご当主の携帯の通話が初めて繋がり、御家族のご無事が確認されました。津波の時には裏山(日和山)の斜面に逃れ、その後は山際にあるテニスコートの事務所小屋に寝泊まりされているとのことでした。家屋や土蔵は全て倒壊流失し、古文書なども消滅したということでした。その数日後、再び通話した際には、古文書を入れていた土蔵だけが瓦礫のなかから無事な姿を現したこと、土蔵の1階部分は天井付近まで冠水したが、2階部分は無事で、古文書なども残っているとの情報がもたらされました。この時点で歴史資料の保全の必要性を認識しましたが、仙台でもガソリンなどが入手困難で、しばらくはレスキュー活動に取りかかることはできませんでした。

■4月上旬の現地調査と資料保全

 3月末頃になってようやく仙台でもガソリンが入手できるようになり、まず4月4日、本会の平川理事長と事務局の4名が現地を訪れ、本間家を含む門脇地区の深刻な被災状況を把握しました(ネットニュース第100号を参照)。それをうけて4月7日には、ネットの会員ら11人によって本間家の所蔵資料の保全活動(レスキュー)が実施されました(ネットニュース第103号を参照)。またその模様は河北新報(4月17日版)の紙面でも報道されております。
 
 土蔵の様子(4月12日の調査時)

 こうして本間家の土蔵の歴史資料はとりあえず保全できましたが、土蔵については、ご当主によれば、破損が建物構造に及んでいるおそれもあり、取り壊さざるをえないであろうとのことでした。

 しかしながらこれだけ甚大な被害を被った門脇地区にあって、瓦礫の中にポツンと佇む土蔵の光景は余りにも象徴的なものがあり、奇蹟的に残った120年前の歴史の証人でもある土蔵を、この度の震災を後世に伝えるためにも、何とかして保存し後世に伝えることはできないものかということが、平川理事長から提起され、私たちの間で話し合われました。なお他にも同様の物件があることから、ともかく建築の専門家の診断が必要であろうとのことで、4月11日には平川理事長から福島市の佐藤敏宏氏(一級建築士)に対して、被災建築物の調査と修復への助言をするアドバイザー就任の要請がなされ、以後の私たちの活動において佐藤氏の全面的なご協力が得られることになりました。

■4月12日 建築チームの現地調査

 佐藤敏宏氏をリーダーとして、金沢から橋本浩司氏(古建築修復の専門家)ならびに中村彩氏(造園家)、京都から満田衛資氏(建築構造の専門家)が当地に駆けつけてくださり、急ごしらえながら意欲的な建築調査チームが結成されました。そこに私たちが同行する形で、4月12日から3日間にわたる建築被害調査が実施されました。その内容と成果についてはネット・ニュースの第111号(佐藤敏宏氏の寄稿)、および第112号(橋本浩司氏の寄稿)に的確に記されておりますのでご参照ください。

 4月12日に実施された本間家の土蔵の被害調査の結果によれば、幸いにも柱と梁の軸組み部分(基本構造)には損傷はみられず、瓦および垂木と母屋に部分的破損がみられるが補修は十分可能であること、さらに長期的には剥落した漆喰・海鼠壁の補修が必要、といったアドバイスが示されました。

 この調査チームの所見は、当日現場でご当主に口頭で伝えられ、これをふまえご当主は、とりあえず現在進められている自衛隊による瓦礫撤去にあわせての土蔵の取り壊しは見合わせたい、とのご意向が示されました。これにより目前に迫った土蔵取り壊しはひとまず回避されることになりました。

■4月17日(その1) 土蔵の現況

 その後、建築物調査チームは短期間のうちに多数の被災物件の調査と応急的補修をこなしてくれましたが、本間家の土蔵についての調査報告書も作成してくれましたので、これを持参するとともに、現地の最新の状況を確認するため、斎藤が4月17日、現地を再訪しました。

 門脇地区を埋め尽くす膨大な瓦礫は、まだ至る所に残っていましたが、本間家の土蔵の周りの瓦礫は、この数日の間にも取り片付けが進んでいることが窺えました。

 私の訪問に対し、ご当主は4月7日の建築家のアドバイスもあり、その後、現場で瓦礫撤去にあたる自衛隊チームに「とりあえず土蔵は撤去しない」という考えを示し、土蔵だけは撤去から除外してもらったとのとのことでした。こうして周辺の瓦礫が取りのけられたなか、土蔵がさらに鮮明にその姿を現しておりました。

 土蔵を見ててもらうと、入ると驚いたことに、浸水した土蔵の床板が上げられ、床下に入り込んだ汚泥(とパルプ屑。これは近くの製紙工場から流出したとみられる)がきれいに掻き出され、土蔵の床下に風を入れて乾燥させているところでした。被災され大変不便な生活をされているご当主と、仙台から駆けつけられた弟さんとでこの作業をされたとのことで、一度は土蔵を取り壊すことを考えたというご当主自らこの作業にあたられたことに、ご当主の土蔵への愛着を改めて窺い知らされ感銘を受けました。それとともに、建築チームの診断がご当主の土蔵への思いを甦らせた、この日の作業に繋がったのではないかとも感じました。

   
 土蔵の内部(入口付近) 床が上げられている  (1階奥) 4月17日時点

 それとともにこの土蔵を残すためには、破損部分の応急補修のための手立て(作業従事者と経費の手当て)をできるだけ早く講じていく必要性があることも強く感じさせられました。

■4月17日(その2) 倉庫の解体と若宮丸の廃棄

 いっぽうで本間家のなかで偉容を誇っていた大型倉庫(旧醸造蔵)については、津波によって大きく損壊し、そこにあった若宮丸も瓦礫に埋もれ破損していました。
   
 大型倉庫の破損状況(4月7日時点)  内部の若宮丸の状況(同日)

 4月12日の建築診断の際には、建築チームによって崩れた倉庫から若宮丸を搬出が可能かどうかが検討されましたが、倉庫の状態が倒壊寸前であること、そこから若宮丸を引き出すことは人力だけでは到底無理であるなどのことから、搬出は断念されました。
 
 瓦礫の上に若宮丸の壊れた船体が(4月17日)

 その後、4月17日に斎藤が訪問した時点では、状況は一挙に変動してしまいました。自衛隊による瓦礫撤去は進展し、まず大型倉庫は解体されてすでに形がなく、その廃材がうずたかく積み上げられた瓦礫の山の上に、壊れた若宮丸の壊れた船体が積み上げられているのが確認されました。ご当主によると、大型倉庫の解体に際して、若宮丸を引き出すことができないか、瓦礫撤去の現場担当者と検討してみたとのことですが、倉庫は解体が始まると簡単に崩壊してしまい、若宮丸はそのなかで潰されてしまったとのことで、結局引き出すことはできなかったということでした。

 石巻市民の募金によって作られ、市民祭りの際には街中に引き出されて引き回され、市民に愛されてきた若宮丸をレスキューすることはできませんでした。瓦礫の山の上のその無惨な姿は、今回の東日本大震災の悲惨さをまさに象徴するものと思われました。

■石巻市門脇の震災被害を記憶するために  本間家の震災土蔵の保存にご支援を

 本間家の土蔵ならびに若宮丸については、以上のような経緯で、なお現在も事態は進行中です。土蔵の古文書はいちおう保全されましたが、土蔵じたいの保全に関しては、私たちの思いに応えてくださる形で、ご当主も当初の解体から保全へと方針を転換してくださるに至っておりますが、これが保全できるかどうかは、なお未確定であるといわざるを得ません。特に屋根付近の破損部分から雨水が建物構造に浸透するおそれがあり、その補修が緊急に必要であること、さらには外壁の漆喰壁・海鼠壁についてもなるべく早い補修が必要とされています。

 しかしながらご当主からは、土蔵を除く自宅が全壊し、事業所の小屋に寝泊まりする状況にあって、補修のための費用を負担することは難しいとの事情にあることも伝えられております。

 これは被災地の所蔵者に共通する事情でもあり、歴史資料のみならず建物など文化財の保全のための補修費用をどのように手当したらよいのかは、私たちの今後の活動にとっても極めて重要な課題になることは明らかです。この対策については本ネットでもすでに検討を始めていますが、ボランティアベースで活動するNPO法人たる本ネットにおいては、これに対応するには限界があります。なんとか広く全国的で組織的な支援が求められていることを訴えたいと思います。

 未曾有の震災の被害を後世に長く伝えるために
 本間家の被災土蔵の保全に向けて、皆さまのご支援をお願いいたします!。



117号(2011年5月4日)

ボランティアの急募です。

 5月7日(土)・8日(日)にボランティアを募集します。申込者が多数の場合には先着順となりますのでご了解ください。なお、遠方からご参加される場合には、宿泊などはご自身でご手配ください。また交通費・宿泊費は、参加者負担となります。

■作業の内容

 現在、事務局に緊急搬出された古文書類が一時的に保管されています。水損した資料も含まれており、これらの応急処置および整理作業を実施いたします。

■募集要項

○募集人員:10人程度
○作業時間:9時〜5時
○作業場所:東北大学川内南キャンパス 文科系総合研究棟11階 中会議室1・2

*公共交通機関 仙台市営バス 仙台駅前9番乗り場
「宮教大・青葉台行」ないし「青葉通経由動物公園循環」          
「東北大学入試センター前」下車  徒歩3分

http://www.tohoku.ac.jp/japanese/profile/about/10/about1003/index.html

○その他:昼食代を支給いたします。

<注意事項>
 1.汚れてもよい服装でおいでください。
 2.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
 3.昼食と飲み物は持参して下さい。

■締切

 5月6日 正午まで

■申込書

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氏名:
所属:
住所:
電話番号:
メールアドレス: 
参加希望日(○を付けてください)
7日(土):
8日(日):
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116号(2011年5月3日)

東日本大震災・桃生町での歴史資料保全活動

 宮城資料ネット事務局の天野真志です。

 4月27日(水)、石巻市桃生町で歴史資料保全活動を実施しました。対象となったS家は、江戸時代に藩の礼法に携わる旧家でしたが、今回の地震で土蔵が倒壊し、資料の保管が困難となったため、同市文化財保護委員の方からの要請をうけ、事務局が資料の搬出作業をおこないました。
 
 資料の搬出作業

 事務局が現地に赴いた際、すでに土蔵は解体されていました。ただ、古い物を安易に捨てないよう、文化財保護委員の方たちから呼びかけられていたこともあり、蔵のなかにあった資料は、雨に濡れない場所へ一時避難されておりました。江戸時代の礼法や明治期以降の土地所有関係の資料、さらに代々受け継いできた道具類などが多数残されており、一時保管先として東北歴史博物館へ移送しました。また、水損資料については事務局に運び込み、資料ネット会員の協力を得て応急処置を施しました。今回、すべての資料を搬出できなかったため、後日改めて残りの資料を搬出する予定です。

 土蔵の解体に際して、今回のお宅では重機ではなく手作業での解体をおこなったそうです。わざわざ手のかかる解体方法をとったのは、資料に対するご当主の想いによるものでした。
 お宅に残された資料は、古文書類のみならず、江戸時代以来同家で集められた食器類や落雁の型など、この地域の歴史を今に伝える歴史資料でした。ご当主によると、今後これらの資料を残すにあたり、単に古いものを残すのではなく、「地域の思い出」として、地域の方々とその価値を共有しながら残していきたいとおっしゃっていました。
 
 水損資料の応急処置

 歴史の記憶が風化すると、お宅に残された歴史資料も忘れ去られてしまう。それにともない、資料に対する関心も薄れ、せっかく残された資料もやがて無くなってしまう。こうした事態を防ぐために、まずは古いものを残し、その後にそれらを地域で共有することができないものか、というご当主の想いが、多くの歴史資料の保全に繋がったといえます。こうした所蔵者の想いに少しでも応えられるよう、今後も活動を続けていきたいと思いますので、これからもご支援・ご協力よろしくお願いいたします。








115号(2011年5月1日)

水損資料応急処置

           宮城資料ネット理事 堀 裕

 4月25日(月)、宮城県農業高校の水損資料応急処置と搬出のための活動を行いました。当日は、台風被害の水損資料保全活動の経験がある歴史資料ネットワーク(神戸)のメンバー(4名)による水損資料の保全方法の指導のもと、山形資料ネットワーク(6名)と宮城資料ネットワーク(8名)の参加者によって活動が行われました。

 宮城県農業高等学校は、海岸から約2キロの距離に立地し、津波被害によって校舎・校庭に大きな被害がありました。再建に向けた努力が続けられていますが、現在も津波被害の跡が大きく残ったままです。このような活動場所のため、安全を考え、本格的な処置は東北芸術工科大学で行うこととし、この日は簡単な応急処置と搬出を行いました。

     
 倉庫に乗り上げた乗用車  職員が応急処置した蔵書  汚れを刷毛で落とす

 明治期創立の当学校の資料は、『農業全書』など農業関係を中心に、語学や文学に関する和装・洋装の本が多数あって、搬出時のコンテナ約50箱分にもなるほどです。

 活動の行われた建物の1階に、対象となる資料の書庫があったため、資料は津波の被害を受けました。資料の一部は、先に高校の先生の手によって2階に搬出され、殺菌のためのエタノール噴霧の後、床いっぱいに積まれていました。本には泥がべったり付いただけでなく、一部に水損によると思われるカビがあり、和装本は数冊が接着して離れないものも多くありました。その場の作業は、本を傷めないようにハケや竹串を用い、表面の泥を除いた上で、できるだけ撮影のため題名(外題・内題)や奥付がわかるように泥を除き、番号を書いた付箋を挟み込みます。目録作成のための撮影も行う予定でしたが、時間の関係で先に搬出を行うこととし、応急処置の済んだ資料はすぐにコンテナに納めました。1階では、書庫の床に散乱していた泥まみれの和書を取り上げ、白カビの拭き取りとエタノール噴霧を行った上、陰干しをしています。これらの資料への対応は、ほぼ一ヶ月後になるとの事でした。

     
 蔵書を搬出する  東北芸工大への搬入  蔵書の仕分け作業

 搬出された東北芸術工科大学では、翌日・翌々日にも、応急処置作業が行われています。

 今回、水損資料が短期間で廃棄される可能性のあることを想像させる一方で、水損資料にも保全の方法があり、その具体的方法の一端を学ぶことになりました。



114号(2011年4月29日)

東日本大震災・旧岩切郵便局ふすまの下張り文書はがし


         宮城資料ネット会員 佐藤麻里(東京学芸大学大学院博士後期課程)

 4月23日(土)、24日(日)の2日間にわたり、資料ネット事務局で先日のレスキュー活動により持ち込まれたふすま解体・下張り文書はがしが行われました。私は今回はじめて、ボランティアとして資料ネットの活動に参加させていただきました。その活動の様子について、報告させていただきます。

■作業の概要

 今回の下張り文書はがしの対象となったのは、4月6日(水)の歴史資料保全活動の際に搬出された旧岩切郵便局(仙台市宮城野区)のものを中心とする、約20枚のふすまです。旧岩切郵便局の建物は、今回の震災を契機に解体されましたが、多数の下張り文書を含む襖がレスキューされておりました(詳細は宮城資料ネット・ニュース102号をご参照下さい)。
 
 組子から下張りをはがす作業
(撮影:斎藤秀一)

■作業の手順

 下張り文書はがしは、事務局の蝦名裕一さんの指揮のもと、ボランティア計16名で行いました。作業の手順は、@上張りをはがす→A下張りを水分で湿らせ、扇柄やヘラなどで剥がす、というものですが、最初は手探りの部分も多かったです。試行錯誤を繰り返し、互いにより良い方法を思いついては提案しあった結果、下張りをはがすためにはとにかく紙を湿らせることが大事だとわかり、そのためにより効率のよい方法が編み出されていきました。下張り文書の点数も多かったことから、一枚一枚の文書にはがす作業は後日にまわし、今回の作業では組子から下張りをはがすところまで確実に終わらせることにしました。その結果、約20枚の襖から下張りをはがすことができました。私は下張り文書はがしを行うのが初めてで、最初は難しいと感じることも多かったですが、皆さんのアドバイスのおかげで作業終盤にはコツを掴めました。次回以降もこうした作業参加し、習得した技術を活かしたいと思います。

■下張り文書について

 旧岩切郵便局の建物は、明治35年(1902)に建設され、宮城県の近代化遺産に登録されたものであり、松島に近世・明治期に存在した旅館「扇屋」の一部が移築されたものだとわかっています。そのため今回搬入された襖の下張りには、岩切郵便局時代のものや、近世の岩切周辺を知る古文書や書が含まれている可能性が高いと期待されていました。今回は組子から下張り全体を剥がすことに専念したため、下張りにどのような文書が使用されていたか、詳細に知ることはできませんでしたが、少し見ただけでも、実に様々な史料が含まれていることがわかりました。
 
 下張りから現れた多様な文書群
(撮影:斎藤秀一)

 まず、建設翌年以降の岩切郵便局の業務日誌、明治14年〜15年(1881〜82)の「人足帳」、さらに松島の旅館「扇屋」時代の文書が見つかりました。岩切郵便局の襖も、「扇屋」から移築したものであることが裏付けられます。また、荒所起返が実施された枝野村(現宮城県角田市)の天保11年(1840)の小割帳、嘉永5年(1852)の小斉村(現宮城県丸森町)の宗門人別帳など伊具郡の村々や、盛岡藩閉伊郡(現岩手県)の地名が見られる史料が発見され、古紙の流通事情などを考えさせられます。仙台藩郡奉行の職務に関わる史料などもありました。仙台藩政を窺い知る史料は貴重だとのことで、今後さらなる分析が待たれます。その他にも手習いや書、書状など、多種多様な古文書が下張りには用いられていました。旧岩切郵便局の建物が今回の震災で失われてしまったことは残念ですが、このような貴重な歴史資料を保全できたのは本当に嬉しく、災害を乗り越え残された歴史資料を後世に伝えていくことが重要だと実感しました。

■資料保全活動について

 下張り作業の最中にも、平川新先生が石巻市で津波被害に遭った史料をレスキューしてきたということで、拝見させていただきました。一か月も経ったというのに紙がまだ湿っていること、史料から潮の匂いがすることにとても驚きました。事務局の置かれた部屋には、これまでの活動でレスキューされた様々な歴史資料が置かれており、また作業に参加された皆さんから各地の状況をお聞きし、今回の震災が歴史資料・建造物に及ぼした被害が甚大かつ広域であることを実感しました。震災の体験や生活という面において、東京にいる私が真に理解し共感することは難しいと自覚しているものの、歴史資料・建造物の保全という問題に関しては、歴史学あるいは歴史資料・建造物に関わる人間として、当事者でありたい。“現在”未曾有の大災害に苦しむ東北地方の皆様の力になり、ともに災害と向き合い、保全された歴史資料や災害の記録などの“過去”に学び、“将来”どこかで必ず起こるだろう大災害に対処できるだけの力をつけたい。そのような思いから、私は今回のボランティアに参加させていただきましたが、この2日間でその思いをより強く致しました。私たちがこのような活動をできるのも、レスキュー活動や情報収集活動の傍ら、ボランティア受け入れ体制を整備されている事務局の方々のお陰です。しかし、それはとても大変なことです。呼びかけがあった際に適切に応じることが、実は私たちに今できる一番のことなのではないかと思います。

(追記)
 今回の作業に際しては、宮城県内をはじめ、東北・関東方面からボランティアで駆けつけていただいた多くの方々のご助力をいただきました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。(事務局・蝦名記)


113号(2011年4月24日)

東日本大震災 被災地より
104年間「お宝」を守った土蔵−仙台市での保全活動

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。今回は4月22日に仙台市で実施した史料保全活動の報告です。

 幕末に仙台藩の蔵元商人などを勤めたO家の土蔵は、3月11日の本震と、4月7日の余震で、南側に大きく傾くなどの損傷を受けました。震災以前からの老朽化もあり、このほど取り壊されることになりました。土蔵には、幕末から昭和初めまでの古文書や書類、刀剣類、古美術品などが収められていましたが、古文書については仙台市史編さん事業で整理され、仙台市博物館で保管されるなど、多くの史料が震災以前に蔵から出されて保存されていました。

     
 土蔵周辺の状況を確認  中に収められていた道具類  資料を搬出する

 その一方、震災直後に御当主をお尋ねした際、明治初めに紅茶製造業を営んだ際に使った道具など、まだほかにも貴重なものがありそうだというお話がありました。そこで、事務局から、土蔵を取り壊す前に、蔵の中の道具類などを安全な場所に搬出する御手伝いをさせてほしいと依頼し、ご了承をいただきました。その結果、今回の保全活動を実施することになったのです。保全に先立って、御当主が倒壊防止のため足場を組むなど応急処置をしてくださいました。

 当日はあいにくの小雨模様のなか、東京からの参加者2名も含む14名で作業を行いました。応急処置が施されているとはいえ、傾いている土蔵での作業は危険が伴うため、中に入る人数を最小限に留め、リレー方式でひとまず敷地内の安全な場所に搬出しました。土蔵の中には、幕末から明治時代に同家が収集した多くの什器や道具類や和本、さらに若干の古文書類も残されていました。道具類の箱書きには入手した年代や産地が記されているものも多く、これまで調査された古文書類とあわせ、幕末から明治時代における仙台商人の家財収集の実態や嗜好を知る手がかりとなると考えられます。
   
 リレー方式で運び出す  搬出した資料を清掃する

 今回取り壊しとなる土蔵は、1907年(明治40)に完成したそうです。3年間かけて作られた土蔵には、土壁を作る際、近所の子供たちを集め、泥玉を壁に投げつけさせた、といったエピソードも伝えられています。その土蔵は、完成後に起こった、1945年(昭和20)7月10日の仙台空襲、1978年(昭和53)年6月12日の宮城県沖地震、そして今回の東日本大震災といった大災害から、古文書や家財を見事に守り抜いたのでした。

 時を経て、地域にとっての「お宝」になったこれらの史料を、今後どのように保全してゆくのか。人々の力を合わせて史料を保全する新しい仕組みを考えることが、今回の震災をもって役目を終える土蔵に対するなによりの餞となるのではないかという思いを強くし、現場を後にしました。

 
 保全を終えてたたずむ土蔵



112号(2011年4月23日)

東日本大震災・伝統的建造物被災状況調査

 石川県金沢市で建築の設計をしております、橋本浩司です。社団法人金沢職人大学校で助手を勤めながら、伝統的建造物修復士として町家や民家、土蔵の修復などに従事しております。今回、ご縁があり宮城資料ネットの歴史資料保全活動に同行させていただき、4月12日から14日の3日間に渡り、建築家の佐藤敏宏氏および京都在住の建築構造家、満田衛資氏(12日のみ)、そして妻であり庭の設計を行っている中村彩と共に、伝統的建造物の被災状況調査を行いました。

■4月12日/石巻市

 
千枚通しで材の腐朽具合を確認する
 まず、千石船に関する資料を所有されている旧家に向かいました。大津波による瓦礫の山であたりが埋もれている中、その旧家の土蔵だけが運良く残ったのですが、その被災状況を調査いたしました。柱は梁などの軸組み部分に関しては、全く問題ありませんでした。入り口の下屋と呼ばれる部分は流されてしまいましたが、土蔵本体で損傷しているのは、大きく分けると置屋根と壁の部分です。

 置屋根海側の瓦とそれを支える垂木や母屋という部材が、津波による漂流物で部分的に破損していました。これは比較的安価に修復可能です。折れた母屋の補強方法については、京都から駆けつけられた構造家の満田氏と検討いたしました。
壁に関しては、漆喰や海鼠(なまこ)壁などの表面材が剥離しているだけで、その下地となる土壁はしっかりしており、こちらも大掛かりな修繕は不要と判断しました。ただ、小規模でも土壁の修繕はある程度費用がかかります。

 なお、この土蔵は昨年腰壁部分に鉄筋コンクリートで構造補強が行われていたのですが、同じように補強された隣の土蔵が津波でつぶされています。周囲の状況から見ますと、残ったのがまさに奇跡的に思えます。また、瓦礫の中にたくましく建っているこの土蔵を見ていると、どこか復興の象徴になりうる気がしてなりません。なんとか修繕して残していけるよう、今後の活動が重要になってきます。またこれらの調査内容は調査報告書に簡単な図面と共に記載して、後日蔵の所有者の方にお渡しすることになっております。

■4月13日/村田町

 
 漆喰壁および海鼠(なまこ)壁の崩落
 次に向かったのは、柴田郡村田町です。ここは蔵の町として知られておりますが、その蔵を中心に建物の被災状況を調査いたしました。店蔵の立ち並ぶ景観は大変貴重なものであり、宮城県では唯一、国の重要伝統的建造物群保存地区の候補にあがる街並みとのことです。

 実際に敷地内に入らせていただいて調査したのは9件です。数が多いので一つひとつに時間をかけられなかったのですが、総じて構造的には問題ないものの、表面の漆喰および海鼠壁の剥離、また土壁の剥離、崩落が多く、根本的な修繕には時間と費用がかかりそうです。また、実際に応急修理を地元の工務店にお願いしたところ、5月末まで忙しいと断られたケースもあり、職人不足も今後問題になってくるかもしれません。

 
破損状況を御当主と確認
 困難な道であることは間違いないと思いますが、宮城県におけるこの街並みの価値を考えると、できるだけ安易な解体は避け、長期的にしっかりと修繕していくことが強く望まれます。なお、作業後に被害状況調査の概略と修繕する際に必要となる壁土の保存方法などを記した文書を作成しました。後日村田町の蔵所有者に配布する予定です。

■4月14日/岩沼市

 最終日は午前1件、午後1件というスケジュールで、比較的時間をとって調査させていただきました。14日の調査に関しては、宮城資料ネット・ニュース第105号にて蝦名祐一さんが詳しくご報告されていますので、そちらをご参照ください。

 その報告にもありますように、ここでは幾つもの建物を維持しておられる旧家の方の苦悩を感じざるを得ませんでした。地域の記憶が凝縮されている歴史的建造物やその風景は、次の世代に引き継いでいくことが望まれます。しかし建物が立派なものであればあるほど、個人での維持管理にはどうしても限界があります。その場合は、その地域内での移築の可能性などを探り、それが無理ならきちんと現状調査を行い図面などを作成し、資料として後世に残すことも検討していければと思っています。こちらの調査報告書は後日作成して資料ネットを通じてご当主にお渡しする予定になっています。

 以上、3日間にわたり土蔵を中心に調査をさせていただきましたが、まだ建物に対する支援金などが当然全く見えない状況の中、正直に申しまして「薬をもたない医者」のような気持ちでした。実際に問題を解決する方向、つまりはどう修復可能な状況にもっていけるか、という課題に向けて、今後検討していければと強く思います。

 なお、この調査がとてもスムーズに運び、何も問題なく終えることができたのは、宮城資料ネットの先生方およびスタッフの方々による事前の細やかな段取りがあったからこそであり、未曾有の大震災後にもかかわらず対応してくださった調査対象建物の所有者の方と共に、深く感謝いたします。

(追記)
 前号に引き続き、4月12日から14日に実施した伝統的建造物の被災調査について、橋本浩司さんにご寄稿いただきました。橋本さんには調査終了後、早々にご寄稿いただいておりましたが、事務局の都合で配信が遅れました。この場を借りてお詫び申し上げます。(佐藤大介記)



111号(2011年4月22日)

東日本大震災 被災古建築調査の開始にあたって

 NP0法人宮城歴史資料保全ネットワーク(以下宮城資料ネット)関係者の皆さん初めまして。私は福島市に暮らしている佐藤敏宏(活動家・建築家・一級建築士・HP世話人)と申します(私の活動はこちらのサイトにてご覧ください/TAF設計 佐藤敏宏の建築と生活 http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/p2/p-2.htm)。

 4月11日に平川新理事長より東日本大震災における歴史的・伝統的建築の被災状況調査などを依頼されました。私が全国各地から結集する建築関係者も、同様の依頼に基づき被災地での建築調査を行うことになります。

 今回は依頼の内容に基づき、金沢から古建築改修などの専門家である橋本浩司と造園家である中村彩、京都から建築構造専門家の満田衛資を集め、第1回目の調査を4月14日から14日まで行い、調査報告書を作成しました。
 
 明治の古図と建築構造を照合(満田)

 12日は石巻市門脇地区に奇跡的に残った一軒の蔵の被災状況調査と補修の方法を提案しました。13日は村田町歴史みらい館の方々と共に、武家屋敷と15蔵の被災店蔵などの調査を行い、今後の方針について相談してきました。それを基に、行政を通じて村田町の人々へ「被災蔵対策の呼びかけ」の文章を作成し配布していただきました。14日は岩沼市市史編纂室のみなさんと共に2つの屋敷を調査し、その場にある材料で応急処置を施したのち御当主の方に直接口頭で橋本から被災蔵の今後の保存をお願いしました。

 各被災地の蔵の被災状況は、地盤の多様性、建設当時の基礎構造施工技術、竣工後の保全工事の回数、それらの組み合わせによって異なっています。共通していることは塗り壁の剥落と亀裂です。それらは部材の組み合わせによって作られる木造建築が地震に遭うと水平に掛かる力を分散するため、部材がそれぞれに揺れ地震力を吸収しようとします。そのことで蔵本体の安全性を保っているので、保全が悪い蔵を除きますと骨組みが大きく損なわれている蔵は少ないように思います。
 
 現場の丸太を使いひさしの崩落を防ぐ
応急処置を施す(橋本・中村)

 蔵の仕上げである塗り壁の剥落と亀裂は、構造上の安全が保たれていても「地震で壊れた」という印象を御当主の方々に与えてしまっていました。ケヤキの巨大な柱や梁をもつ蔵や主屋などをこれから新しく建築することは不可能ですので、解体費用を補修と耐震改修費に廻すことで蔵を保全し使用し続けることをお薦めしております。なお、蔵は個別に特性が異なるので個別の対応が必要ですので、今後も調査を進め、現代工法も取り入れながら、新たな伝統的建造物の保全方法を考えていきたいと思っております。

 村田町では行政の協力を得ながら、定期的に私達や全国各地の建築技術者に呼びかけ参集していただきます。震災時に蔵を持つことで起こる様々な問題を集めたり聞き取ることで、今後これらの建物をどのように保全してゆくか、共に考え続けることにしました。お互いに語り合うことで、歴史的・伝統的建築物の置かれた問題の対応策を見出そうとしております。引き続きご支援とご協力の程、よろしくお願い申し上げます。

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 今回の大震災に際しては、古文書などの歴史資料はもちろんですが、これまで日本の伝統的な風景を形作ってきた歴史的・伝統的建造物の取り壊しが急速に進む状況です。

 宮城資料ネットではこのような状況を踏まえ、建築の専門家に依頼し、伝統的建造物の保全や記録化などにも、可能な範囲で取り組むことといたしました。本号では建築関係者の組織化にあたってリーダー役を依頼した、TAF設計代表の佐藤敏宏さんにご寄稿いただきました。(事務局・佐藤大介記)



110号(2011年4月22日)

東日本大震災・栗原市での歴史資料保全活動

 宮城資料ネット事務局の天野真志です。

 4月19日(月)、栗原市若柳地区を中心に、歴史資料の被災状況を調査しました。今回の震災は、大規模津波の影響で、沿岸部が壊滅的被害を受けております。それとともに、マグニチュード9.0という、国内史上最大規模の地震の影響で、内陸部においても大きな被害が確認されています。さらに、栗原市では、4月7日に発生した地震の影響で、何とか持ちこたえていた建物にも被害が出たようです。
今回は、地元の郷土史研究者の方から寄せられた情報をもとに、文化庁および栗原市教育委員会と協同で被害調査を実施しました。

■若柳地区の旧家

 まず、地元の研究者の方による案内で、4軒のお宅を訪問しました。
最初のお宅は、今回の震災以前に土蔵などを解体されていたそうですが、今回の地震で昭和初期に建てた母屋の柱が折れ、倒壊してしまいました。

 次に伺ったお宅は、昭和期に建築された旧映画館です。昭和初期の若柳を象徴する建物のひとつでしたが、2度の地震で被害をうけ、解体せざるを得ない状況であったようです。ご当主によると、江戸時代から明治初めにかけて医師を勤めた家で、江戸時代の医学書などを保管しているようです。
 その次にお訪ねしたお宅では、母屋の裏手にある土蔵が完全に倒壊し、中の所蔵物を残したまま横倒し状態になっておりました。これらのお宅へは、後日改めてお訪ねし、被害の詳細を確認していく予定です。

 連続した2度の大規模地震で、同地区の古建築などは大きな被害をうけました。その影響で、多くの歴史的建造物がすでに消滅しつつあります。今後、地震に耐えた建造物を後世に残し、歴史資料を保全するための活動を早急に進めていく必要性を痛感しました。

■若柳郷土資料館

 
 倒壊した若柳郷土資料館
 同館は、古い民具や考古資料、近代の土地関係資料を数多く所蔵していますが、今回の地震で民具資料を収蔵していた部分が倒壊し、現在はブルーシートで覆われていました。
 また、展示スペースも、ガラスケースが軒並み破損し、倒れた資料を救出するのもかなり危険な状態でした。今後、倒壊部分に残された民俗資料を中心に、収蔵資料の保全作業を実施する必要があります。

■旧くりはら田園鉄道株式会社本社(くりでん)

 かつて保全活動を実施したくりでん本社も、地震の被害を受けていました。
 旧本社については、外から見た限り、数枚のガラスが割れた程度で大きな被害は無いように見えましたが、車庫は側壁が倒れかけ、工場内部も物品が散乱している状態でした。
 
 くりでん車庫の現状

■築館出土文化財管理センター

 同センターに個人宅からふすまが十数枚搬入されたとのことでしたので、文化庁の方々とともに現状調査を実施しました。ふすまに描かれた書画に大きな破損はありませんでしたが、今後修復の必要性もあるとのことで、文化庁の方から修復に関するアドバイスを頂戴しました。

 センターの収蔵物に被害は確認されませんでしたが、建物の瓦が崩落し、収蔵庫の一部で雨漏りしている状態でした。

■瀬峰公民館

 公民館裏手が崩れ、物置が土砂につぶされていました。旧家から搬出したふすまがなかにあるため、レスキューの必要があります。倒壊を免れたプレハブも、状況によっては一時避難が必要になります。

 ガソリンの安定供給、道路の復旧に伴い、保全活動の範囲も広域になってきました。今後、会員および支援者の皆様にご助力をお願いすることも増えてくると思います。1点でも多くの歴史資料を後世に遺すため、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。



109号(2011年4月20日)

急募・水損資料応急処置ボランティア

※募集は終了しました。多くの方にご参加いただきありがとうございます。

 4月25日月曜日から27日水曜日まで3日間、水損資料応急処置ボランティアを4名程度募集いたします。対象は、今回の震災で津波被害を受けた、宮城県農業高校所蔵の和本です。神戸の史料ネットから派遣される専門家チームの指示に従い、作業にあたっていただきます。
 
 協力いただける方は末尾の申込書に必要事項をご記入の上、事務局までご連絡ください。申込者が多数の場合には先着順となりますのでご了解ください。なお、遠方からご参加される場合には、宿泊などはご自身でご手配ください。また交通費・宿泊費は、参加者負担となります。
 
 (注意事項)
  1.汚れてもよい服装でおいでください。
  2.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
  3.昼食と飲み物は持参して下さい。
 
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氏名:
住所:
電話番号:
メールアドレス: 
所属:
参加希望日(○を付けてください)
25日(月):
26日(火):
27日(水):
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108号(2011年4月19日)

東日本大震災・位牌堂の復旧活動

                        宮城資料ネット理事 柳谷(菊池)慶子
 
 4月17日(日)、県北にある寺院の位牌堂の復旧作業を行いました。本堂奥にある位牌堂には三段の棚上に江戸時代の歴代当主とその家族の位牌が厨子に納められて安置され、また開山以来代々の住職の位牌、大般若経を納めた経箱、仏具なども置かれていました。位牌・厨子は大きいもので1m近くあるものから、30cmほどのものまで、全部で50基ほど。これらの大半が3月11日の地震で転倒して棚から秩序なく落下し、さらに4月7日の余震で被害が大きくなりました。お寺だけでは元通りに戻すことが困難であるとして関係者から復旧活動の依頼があり、依頼者とご家族、和尚さんとともに終日作業にあたりました。
 
 転倒した厨子の確認
 
 まずは位牌堂の中のものすべてを本堂に運び出しました。厨子の多くは金具がはずれて扉がこわれ、中の位牌が外に飛び出していました。扉はばらけた状態のものもあり、大きさの違う扉などから合うものを見つけ出して、元のかたちを復元しました。位牌の多くは土台や上部が組み立て式であることがわかり、はずれて迷子になっている部分を探して慎重に合わせて復元を試みました。
 
 その後、厨子からはぐれた位牌を元の厨子に納めるべく、墨書の説明書きを確認し、大きさを見極めるなどして、大方は元の姿となるように整えました。しかし、厨子の多くは損傷しており、さらに位牌は美しい意匠部分が破損したものがあり、仏像や仏教美術の専門家に修復を委ねる必要があります。
 
 厨子を本堂に搬出する
 
厨子と位牌の照合作業 
  とりあえず厨子と位牌をほぼ元通りのかたちに復元できたことで、安全性の確保に考慮しながらこれらを位牌堂に戻し、午前10時半から始めた作業を午後5時過ぎに無事終了しました。
 
 作業の傍ら系図をもとに位牌に刻まれた法名の主を確認してみましたが、初代から13代まで、江戸時代の当主の位牌が揃っているだけでなく、妻室と実母、童子・童女の位牌も揃っており、さらに位牌および厨子にほどこされた意匠は夫婦や親子のつながりを示すものとしても興味深いものでした。女性たちの位牌の装飾には実家の家紋もみられます。明治初年に神式でつくられた位牌は「神儀」と刻印され、初代の父の位牌はこの時期に神儀としてつくられていたこともわかりました。このたびの活動は思いがけず位牌の歴史史料としての価値を考える機会となりました。それだけに震災で損傷したことは痛ましく、文化財の修復の手立てをお寺や個人で背負うだけでなく、支援の方法を考える必要性をあらためて思いました。
 お寺に向かう途中、県北地域の一部を車で見て回りましたが、旧家の門が大きく傾いていたり、土蔵の白壁・海鼠壁の剥落、壁板からの土壁の剥離などの損壊状況がみられ、シートをかけて凌いでいる様子が目立ちました。内陸部の街道沿いの古建築についてあらためて調査が必要であろうと思います。
 
 今回の活動には資料ネットから6名が参加しました。




107号(2011年4月18日)

ボランティアの募集です。

※募集は終了しました。多くの方にお申し込みいただきありがとうございます。

 4月22日(金)・23日(土)・24日(日)にボランティアを募集します。申込者が多数の場合には先着順となりますのでご了解ください。なお、遠方からご参加される場合には、宿泊などはご自身でご手配ください。また交通費・宿泊費は、参加者負担となります。

■22日(金) 仙台市太白区の旧家の土蔵から古美術品・民具などを搬出
 募集人員:10人程度
 集合時間:8時50分 出発:9時
 集合場所:仙台市博物館駐車場
      市博からは事務局の用意した車で行きます

(注意事項)
 大きく損壊した土蔵からのレスキューですので、下記の点にご留意ください。
  1.ご自身で傷害保険かボランティア保険等にご加入ください。
  2.ヘルメットをお持ちの方は持参してください。お持ちでない方は事務局で用意します。
  3.できるだけ安全靴を着用願います。
  4.汚れてもよい服装でおいでください。
  5.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
  6.昼食と飲み物は持参して下さい。
    
■23日(土)・24日(日) 資料ネット事務局での作業
 現在、事務局に解体家屋から回収した20枚程度のフスマが持ち込まれています。作業は、このフスマの解体と下張りはがしです。
 募集人員:10人程度
 時間:9時
 場所:東北大学川内南キャンパス 
    文系総合研究棟11階「防災科学研究拠点オフィス」
(マップ) http://www.tohoku.ac.jp/japanese/profile/about/10/about1003/index.html

(注意事項)
   1.汚れてもよい服装でおいでください。
   2.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
   3.昼食と飲み物は持参して下さい。

参加申込書
-----------------------------------
氏名
住所
電話番号
メールアドレス 
所属
参加希望日(○を付けてください)
22日(金)
23日(土)
24日(日)
------------------------------------



106号(2011年4月17日)

書画類の無償修復のお願い

 平川新です。本メールではとくに文化財の保存・修復分野の方々にお願いをさせていただきたいと思います。

 これまでの被災調査やレスキューのなかで、個人宅に所蔵された書画類が地震で落下して破れたり、津波による浸水で海水につかったりしたものが出てきております。これらのものは所蔵者の方々にとって大切なものですので、なんとか修復してあげられないだろうかと思っております。

 しかし修復に費用がかかるということですと、修復できますよとか、お預かりして直しますよ、と申し上げることができません。そこでお願いをしたいのですが、震災で被害をうけた書画類(軸物、額物等)を無償で修復してくださる方はいらっしゃらないでしょうか。

 保存・修復にかかわる個人の方や機関、および関係学会の方々には、ぜひこの問題をご検討いただき、無償による修復に取り組んでいただけるよう、切望しております。

 なお修復対象品は、所蔵者宅での保管が困難なのものについては宮城資料ネット事務局に搬入しておりますが、所蔵者宅に残してきたものもあります。修復をお引き受けいただける場合には、いずれにも対応いただけるようお願い申し上げます。

 ご協力いただける場合には、宮城資料ネット事務局へメールにてご連絡をいただければありがたく存じます。



105号(2011年4月16日)

東日本大震災・岩沼市での歴史資料保全活動

 宮城資料ネット事務局の蝦名裕一です。

 4月9日に宮城県沖を震源とするマグニチュード7.1の余震が発生するなど、未だ東日本各地では余震が相次いでいます。3月11日に発生した本震の被害をかろうじて免れた建造物が、余震をうけて倒壊するなど、新たな被害の情報も寄せられています。

 4月14日の被災地調査では、4月5日の岩沼方面への視察の際に、建造物に大きな被害が確認された旧家について、再度の訪問調査を実施しました。今回は、4月12日よりボランティアで駆けつけてくれた建築士の橋本浩司さん、中村彩さん、佐藤敏宏さんにも引き続き同行をいただきました。また、現在市史編さん事業を展開する岩沼市史編纂室の室員の方々も参加して調査を実施しました。

 はじめに訪れたのは、江戸時代に阿武隈川で廻船問屋や舟役人をされていたお宅です。今回の震災では、地震によって母屋をはじめ土蔵や庭園が大きな被害をうけていました。特に2階建ての土蔵では、側面を縦断する大きな亀裂、白壁・海鼠壁の激しい剥落、壁板からの土壁の剥離などの損壊状況がみられました。今後、風雨や湿気による土蔵内部への被害が拡大する危険性が予期される状態でした。
 
 剥離した壁土に土台を作る
所有者の方も、相次ぐ余震による被害の拡大を懸念し、早急な修復の方法を模索しておられました。

 橋本さんによる内部構造の調査では、土壁の崩落は激しいものの、内部構造はしっかりしており、倒壊の可能性は低く、修復も可能ということでした。ただし、壁板から剥離した壁土の部分について、厚く塗り重ねられた壁土と海鼠壁が、今後の余震によって自重により崩壊する危険性があるとのことでした。ここで、橋本さんのご提案により、剥離した壁土の下にブロックや石を積み上げて土台を作り、応急処置を施しました。また、中村さんによれば、倒壊した石塔の修復について、最近では無色で強力な接着剤があり、十分に修復は可能とのお話をいただきました。

 次に訪れたのは、近代の大地主であった岩沼市東部の旧家でした。今回の震災では、母屋前まで津波が迫ってきたとのことでした。


 こちらのお宅では、明治期から戦前にかけて建造された作業蔵を含めた複数の土蔵があり、特に通称「衣装蔵」と呼ばれている土蔵が、北側と東側の土蔵が全面にわたって崩落していました。この蔵は明治初期の建造とのことで、1階部分の壁が煉瓦で覆われたとても特徴的な作りの蔵でした。蔵の内部も拝見させていただきましたが、部材には立派な建材が使用されており、かつ内装も欄間に彫刻が施されるなど、地域の有力者であった当家の歴史が感じられるものでした。

 
 壁紙に裏張りされた近代文書
 蔵内部の床の間では、地震の影響で壁紙が捲れ上がっており、その裏には明治期の文書類が貼られていました。これらの近代文書については、土壁の崩落にともなって雨風にさらされる危険性があったため、これらの古文書を壁から剥がし、別置することにしました。

 蔵を調査した橋本さんは、土壁が大きく崩れたものの、建造当初の基礎構造はしっかりとしており、内部構造についてはほぼ問題が無いという事でした。加えて、この蔵は現在の日本の中でもなかなかお目にかかれるものではなく、県レベルの文化財に指定されてもおかしくはない、という見解を示されました。土壁が大きく崩落した北面の壁については、佐藤さんの手によって、蔵の内部や建材に浸水が無いようにブルーシートで覆う応急処置が施されました。
 
 ブルーシートで応急処置

 今回の調査において、橋本さん、中村さん、佐藤さんには、建築士としての専門的な調査のみならず、臨機応変な応急処置を施していただきました。余震が相次ぐ被災地では、被災した建造物に対し、こうした当面の応急処置を施すことが極めて重要な意味をもつものと言えるでしょう。また、土壁の崩落は一見すると被害のインパクトは強いが、昔の建造物の多くは基礎がしっかりしており、修復も十分に可能であるとのアドバイスには、震災による建造物の解体を憂える我々にとっても、大いに勇気づけられるものでした。これまでの我々の活動では、古文書の救出を中心としていましたが、こうした建築物への対応の重要性を認識するとともに、大変勉強になる調査でした。改めて今回遠方よりボランティアで参加していただいた橋本さん、中村さん、佐藤さんに深く感謝いたします。

 一方で、これらの歴史的建造物の震災被害からの修復、さらにはそれ以後の建造物の維持が、所有されている方々にとって大きな負担となっていることを痛感しました。土蔵が建築された時代と現在では社会状況も大きく異なり、部材も容易に手に入らず、これを担う職人の存在も僅かです。さらに、これを修復、維持する費用は個人レベルではまかないきれないぐらい高額なものとなっています。

 東日本大震災は、沿岸部のみならず内陸部の建造物も大きな被害をうけました。こうした中で、個人レベルでは維持しきれない存在となった古建築は、存続か否かの大きな局面に立たされています。これら歴史的建造物の維持は、歴史を共有する我々ひとりひとりをはじめとして、地域および国を含めた課題なのではないでしょうか。


104号(2011年4月15日)

歌津魚竜館展示資料レスキュー報告

          宮城資料ネット会員(東北大学埋蔵文化財調査室)藤沢 敦

 4月13日(水)に、南三陸町の歌津魚竜館の展示資料をレスキューする活動が行われました。東北大学総合学術博物館の活動として実施されましたが、資料ネットの会員である藤沢が所属する東北大学埋蔵文化財調査室に総合博から協力要請があり、藤沢も一緒に行ってきましたので、活動内容を報告いたします。今後の文化財レスキュー活動の参考にしていただければ幸いです。

 南三陸町の旧歌津町地区には、ウタツギョリュウ、クダノハマギョリュウ、ホソウラギョリュウという、時期の異なる魚竜化石が発見されており、これらは極めて貴重な自然史資料となっています。歌津魚竜館は、これら化石資料をはじめ、旧歌津町内の考古資料、民俗資料を展示する施設として、管の浜漁港の一角にあります。本館は1階が物産コーナーで、2階が展示室となっています。本館の裏側に、クダノハマギョリュウ化石が、発見された状態で、そのまま見学できる施設が併設されています。

 東北大学総合学術博物館の佐々木理先生(古生物学)たちが、3月中に状況調査に入られ、かなりの展示資料が残されていることが確認されていました。この貴重な資料をまもるため、できるだけ早急に動きたいとの総合博関係者の強い意向から、13日に総合学術博物館の活動としてレスキュー活動が行われました。考古資料も展示されていたことから、総合博から東北大学埋蔵文化財調査室に協力依頼がなされ、埋文調査室も協力して実施することとなりました。 総合学術博物館からは佐々木先生はじめ合計4名、埋蔵文化財調査室からは2名が参加しました。宮城県文化財保護課からは2名の担当者が参加し、当日の午前中に南三陸町教育委員会の担当者と必要な連絡調整を行って下さいました。また、文化庁の文化財等救援事業の現地本部の担当者の方も、県保護課の方に同行して来られました。午後1時に現地に集合し、地元で館の管理をされていた方に立ち会っていただき、ただちに活動を開始しました。

 魚竜館の建物は、津波で完全に水没したと思われ、隣接する施設の屋上には自家用車が何台も載っていました。建物自体は、窓などの開口部は完全に壊されていますが、柱・壁・床などの構造体は残っていました。2階の展示室は、大きな窓が片方の妻側とその脇にあるだけで、側面には片方の海側にごく小さな窓があるという、開口部が少ない構造でした。展示室内は完全に水没し、展示ケースも大きく移動し、ほとんど転倒していましたが、外に流れ出したものは少なかったと思われます。周辺の建物や施設は、全て海側に倒れており、引き波によって大きく破壊されたと思われます。展示室の妻側の窓は、引き波の方向とは異なっていたため、流出が少なかった可能性もあります。そのため、奇跡的にほとんどの展示資料が、室内に残されたものと推測されます。展示室内には、砂が数センチ堆積していた以外は、細かな漂流物は入り込んでいましたが、大きながれきは入っていませんでした。これも開口部が小さかったことが幸いした可能性があります。

 
   
 歌津魚竜館の現状(写真提供・藤沢敦)  2階展示室から見る入里前湾(同左)  2階展示室の様子(同左)

 極めて重い化石資料や、民俗資料として貴重な「カッコ船」など、機械を持ち込まないと運び出せないものを除き、運べる資料は展示パネル類も含めて搬出しました。展示資料には、テープラベルで整理番号が1点づつ付けられており、ほとんどの資料でこのテープラベルが残っています。これら資料のリストは南三陸町教育委員会から提供していただいており、番号をもとにリストと照合する作業を今後進めます。詳細な照合はこれからですが、考古資料に関しては、田茂川貝塚出土の縄文時代の石鏃が刺さった鯨骨、田束山経塚出土の三筋壺などの特に重要な資料は、残っていたことが確認できています。現地での作業は午後4時すぎに終了し、車3台で東北大学へ運搬しました。

 今回の地震津波被害に伴う文化財のレスキュー活動は、困難な活動になると実感しました。魚竜館に到着した最初の感想は、「これは怖いな」というものでした。海にすぐ面した場所ですので、大きな余震で津波が発生した場合、極めて危険な場所となります。実際に4月7日の余震では、宮城県沿岸に一時津波警報が発令されています。ラジオを大音量でつけ、地震・津波の情報があればすぐに退避できるように備えながらの活動となりました。津波が侵入した建物内部の破損状況もひどく、大きな余震があれば、様々なものが落ちてきかねない状況です。余震の回数も多く、その規模も大きい状態が続いています。その中での津波被害建物内での作業には、これまで以上に安全対策に留意する必要があると痛感しました。今回の魚竜館では、幸いなことに油の漂着は見られませんでした。しかし大きな港に隣接する地区などでは、津波とともに重油などの油が流れ込んでいる事例もあると推測されます。その場合には、被災文化財のレスキュー活動は、さらに困難な作業になると思われます。

 今回は、登米市東和地区から国道398号線(本吉街道)で水界峠を越えるルートで南三陸町に入りました。峠を越えて少し進んだ入谷地区の付近まで津波がおよんでおり、その先は延々とがれきが続きます。被害の広さは報道で知っているつもりでしたが、実際に目にすると、ただ言葉を失います。被害範囲が広すぎるため、主要道路以外でのがれきの撤去は、ほとんど進んでいないという印象を受けました。がれきの撤去だけでも、まだまだ時間がかかるのは間違いなく、復興までの道のりの長さが想像されます。被災文化財のレスキューは、当面は緊急の対応が続くと思います。その一方で、救援した文化財を再び地元に返すまでには、長い時間が必要となると思われます。そのことを見据えた、息の長い取り組みも必要であることを感じさせられる活動となりました。
 
 水損した帳簿資料への応急処置
(撮影・宮城資料ネット事務局)


(追記)
 14日に、埋蔵文化財調査室にて、考古資料についてリストとの照合を行いました。リストに掲載された考古資料144点、1点の欠損もなく救援できたことが確認されました。考古資料の大部分が、もっとも奥まった、窓のない部屋に展示されていたためと思われます。

(追記その2)
 被災した資料の中に、文政年間(1818-30)の、地元の漁業経営に関わる帳簿1点がありました。佐々木理さんからの相談を受けた事務局では、資料をお預かりして、早速応急処置に取りかかっています。(事務局・佐藤記)



103号(2011年4月15日)

石巻市・門脇地区での資料レスキューを実施

                           斎藤善之(宮城資料ネット副理事長)

 4月8日(金)、この度の震災後では資料ネットにとって事実上初めてとなる歴史資料のレスキュー活動を実施しました。この度の活動は、搬出を必要とする資料が車一台程度の限定的な分量となる見込みから、ネットの会員メンバーに事前に周知する形はとらず、事務局と一部会員とで実施いたしました。この活動は今後、より広範かつ大規模に実施されることになるレスキュー活動に先行することを意識しつつ実施されました。
 
 今回、レスキューの対象となったのは、先のネット・ニュース100号の被災地レポート「大津波に耐えた土蔵−石巻市街地・4月4日」において報告されていた石巻市・門脇地区のH家です。

 なお斎藤は、すでに十年前ほど前からH家には度々訪問し、その所蔵資料の一部については整理のうえで翻刻史料集を刊行しており(斎藤善之著『石巻市門脇・武山六右衛門家文書』石巻千石船の会編、2006年)、同家とその所蔵資料の概要についてはそちらをご参照いただければと思います。

 当日は、前夜(7日深夜)に発生した大規模な余震により、仙台東部道路と三陸自動車道が不通となり、各所で渋滞が発生したため、石巻到着は予定より2時間ほど遅れました。石巻市に入ると西部の蛇田地区から徐々に道路脇に浸水の跡が見られ始め、駅前周辺に至ると町並みの前面に積み上げられた震災ゴミの量の多さに驚かされました。12時頃、避難所になっている石巻市立図書館に到着し、そこで東北歴史博物館のメンバーと合流、そこからは石巻文化センターの佐々木淳氏の先導で門脇のH家に向かいました。門脇地区に踏み込むと、見渡すばかり一面の瓦礫の原、その中に点々と残る建物、とりわけ火災に焼けただれた門脇小学校、焼け跡と海泥の匂い、とにかくその凄まじさには言葉を失いました。

 門脇地区の日和山の麓にあるH家は、かつては2棟の住宅、2棟の土蔵、さらに醸造蔵だった大きな倉庫と板蔵が並ぶ広壮な屋敷が印象的でしたが、今回の津波によって土蔵1棟を除いて全てが倒壊あるいは流失し、あたりは一面瓦礫の原になってしまっていました。1棟だけ残った土蔵も、震災当初は、押し寄せた瓦礫の山に埋もれるようになっていたため、倒壊したものとみられましたが、瓦礫を取りのけるにつれて、意外にもほとんど当時のままの姿であることがわかりました。土蔵は外壁に損傷が見られ、内部も1階部分は天井付近まで浸水したものの、2階部分は窓から若干の海水が滲入しただけで床上までは海水が上がらなかったため、2階に置いてあった古文書や書籍、道具類はほとんど無事でした。これらの文書は一時は土蔵とともにすべて失われたものと思われただけに、その無事は奇蹟的なものと思われました。

     
 H家の土蔵(撮影・斎藤秀一/以下同)  土蔵に入る救援隊 被災を免れた史料

 レスキュー作業は、斎藤がかつて整理した古文書段ボール3箱と、郷土史家・橋本晶氏(故人)が蒐集した筆写資料ファイル段ボール3箱分ほどの保全を予定して実施しましたが、土蔵内を改めて精査してみると、そのほかにこれまで未調査であったH家の醸造関係史料(帳簿や書簡類)の存在が確認されたため、これらすべてを搬出することとしました。最終的に保全された資料の総量は段ボール60箱余にも及び、そのほかに古文書が下張りに貼り込まれた襖や額20点余もあわせて搬出しました。これら保全資料は東北歴史博物館に一時保管されることになり、同館のバンに積み込まれ移送されました。こうして約3時間にわたるレスキュー作業は終了しました。
     
 土蔵二階から史料を下ろす  土蔵から史料を搬出  史料の積み込み

 現地を退去するに際し、改めて土蔵を眺めました。かつては3棟並びで建っていた土蔵でしたが、隣の1棟は倒壊してその姿はなく、この土蔵だけがさほどの損傷もなく一面の瓦礫の中でポツンと立っている姿は、印象的としか言いようがありませんでした。未曾有の大震災のなかで同家と地域の歴史の資料を守り抜いた土蔵は、それ自体貴重な震災の記憶の象徴なのではないかと思われてなりませんでした。

 
 がれきの山にたたずむ土蔵

 今回の活動に参加したメンバーは、ネット会員の斎藤善之、千葉正樹、千葉真弓、斎藤秀一、東北歴史博物館から塩田達也、籠橋俊光、事務局から佐藤大介、天野真志、蝦名裕一の各氏(合計9人)でした。



102号(2011年4月13日)

東日本大震災 被災地より(その3)
仙台市

 宮城資料ネットの佐藤大介です。あの大地震発生から一ヶ月が経過しました。被災地では、いまでも多くの方が困難な生活を強いられています。事務局のある仙台市内は、ガソリンや生活物資はある程度確保できるようになってきましたが、都市ガスは復旧途上です。そのような中では、歴史資料保全活動を行うことができていること自体に感謝すべきだと考えます。

 このメールを書いているさなかにも、福島県浜通りで震度6弱を観測する余震が起こり、仙台の事務局も大きな揺れに見舞われました。

 今回のニュースは、4月6日に実施した仙台市での歴史資料保全活動についてです。

 
 ふすまの下張り文書を確認
 
 窓枠などが取り外された旅籠部分解体のつかの間 
往時の姿がよみがえった
 
 保全した下張り文書の解体作業

■震災で姿を消した近世松島の旅籠建築
 今回保全活動を行ったのは、仙台市宮城野区にある旧岩切郵便局の建物です。庁舎部分は1902年に建築され、宮城県の近代化遺産に指定されていました。さらに2年ほど前の調査で、日本三景の一つである松島の、近世から明治時代初めにかけて随一の旅館であった「扇屋」の建物が一部移築されていることがわかりました。

 この建物は、1960年代に郵便局としての役目を終えた後、集会場として利用されていました。しかし震災以前から老朽化が進み、上記調査の際の報道によれば、所有者の方は建て替えを検討されているとのことでした。結局、建物は今回の震災を契機に解体されることになりました。私たちが必要なものについては搬出するご許可をいただきましたので、メンバー4人で保全活動に向かいました。

 午前中に私たちが到着すると、すでに解体作業は始まっていました。ふすまの下張りに使われている古文書があるというお話があり、実際に文書があるのが確認されました。槌音が響く中、あわただしくふすま十数枚を搬出しました。このほか、床板に転用されていた庁舎部分の指図(図面)や、装飾品などを保全することができました。この間も、解体はあっけないほどの手際よさで進められていきました。

 仙台・宮城に暮らした人々の歴史的な営みを伝える建物が、この震災でまた一つ消えていきました。


■保全された下張り文書
 一方、今回は一部の部材と、膨大なふすまの下張り文書を保全することができました。下張り文書については、早速解体に取りかかっています。全容の解明には当分時間がかかりそうですが、1903年、すなわち今回解体された建物が竣工した翌年の岩切郵便局の業務日誌が使われていました。さらに、江戸時代の戸籍ともいえる宗門人別改帳や、幕末仙台藩の専売制に関係する史料も見られます。

 建物は姿を消しましたが、岩切郵便局、さらにはそれよりも古い時代に、岩切周辺を行き交った人々の営みを知る手がかりが、私たちの元に残されたのでした。



101号(2011年4月10日)

東日本大震災 被災地より(その2)
村田町・岩沼市・亘理町

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。前号に対して、多くの方々より励ましのメールをいただきました。心より御礼申し上げます。一昨日7日夜には大きな余震がありました。3.11震災で損傷した文化財関係のさらなる被害も憂慮されます。

 今回も前回に引き続き、被災地での活動報告です。4月5日に宮城県南部の村田町、岩沼市、亘理町を視察してきました。

■仏壇からの資料保全−村田町(1)

 宮城県村田町は、江戸時代後期に紅花の産地として栄えました。町の中心部には土蔵造りの建物が多く残され、村田商人の繁栄を今に伝えています。「小京都」とも称される町並みは観光にも活用され、各地から多くの人々が訪れています。

 村田町も含め、内陸部の被害状況については報道でもあまり取り上げられることがありませんが、今回の震災で被害が懸念された地域の一つでしたので、4日午前中に視察を行いました。

 同町のO家文書は、村田町屈指の紅花商人であり、明治以降は地域の名望家として活動した同家の活動を示す数千点の古文書です。現在の御当主は県外にお住まいですが、建物や伝来の史料を町おこしに活用したいとのご意向により、建物は町に寄贈され観光施設として活用されています。一方、所蔵の古文書については筆者も含む東北地区の研究者有志が1999年に結成した奥羽史料調査会が、2003年から6年間をかけて整理と撮影を行いました。

 今回の震災に際しては、建物、さらにはその内部や土蔵に保管されていた整理済み史料の状況が憂慮されました。地震直後に行政の文化財担当の方に確認を依頼したところ、災害対応の合間をぬって、O家も含む蔵の町並みの被害状況について、すぐに詳細な情報を提供してくださいました。O家についても建物が倒壊を免れたこと、整理済みの史料が無事であることを早い段階で知ることができました。

 その一方、御当主と連絡をとったところ、震災直前に村田を訪れた際、仏壇の中に史料があるのを見つけた、持ち出そうかどうか迷ったが、次の機会にと思っていたところ今回の地震が起こってしまった、すぐに駆けつけたいが、現在の交通状況ではそれもできない、というお話がありました。余震が心配される状況でもあったので、我々で史料を保全することを申し出たところ、ぜひお願いしたいということで、今回の視察にあわせて対応することにしました。

 対象の史料は、事前に指示のあった場所に収められていました。念のためさらに仏壇を確認したところ、引き出しが数か所あり、中には江戸時代の古文書が多数確認されました。これらの史料は所蔵者の了承を得て、一旦仙台の事務局に搬出することにしました。

 建築士をしている今回の活動支援者の方によれば、O家の主屋はケヤキ製の柱1本が損傷しており、余震などによる倒壊を防ぐための応急処置が必要な状態との事でした。土蔵などに保管されている整理済みの史料は、当日の人員の制約や保管場所の雨漏り被害が確認できなかったことから一旦現状のままにしてきましたが、一昨日の余震も踏まえ、折り返し保全のための対応を行う予定です。

 前日の石巻市雄勝町での経験を経た筆者にとって、何より意義深かったのは、新しい史料が見つかったことではありません。未曾有の災害を免れた史料を、自らの手で救出することができたということです。所蔵者と行政の協力を得た今回の視察と史料保全活動で、今後の活動へ向けた活力を得ることができたのでした。

■震災被害から見えた村田の家造り−村田町(2)

 O家も含め、村田町中心部の土蔵造りの家屋の大半は、今回の震災により、土壁の亀裂や崩落、屋根瓦の落下、建物のゆがみなど、見た目では「大きな損傷」を受けたように見えます。前述の通り、O家も応急処置の必要な箇所がありますが、行政サイドでも被害調査を行ったとのことで、対応する方向で検討するとのことでした。

 一方で、支援者の方によれば、詳細な調査を行う必要があるが、O家も含め村田の土蔵造りの建物は、強固に固められた基礎、現在では入手がほぼ不可能であろう堅牢なケヤキの巨木を用いた柱などのおかげで、多くが致命的な損傷を免れたのではないか、とのことです。土壁の崩落は、以前から老朽化していた箇所が今回の震災で損傷したものであり、建物の構造自体に問題があるというわけではなさそうです。

 災害をきっかけに、先人の知恵と経験が浮き彫りになったということについては、メールニュース98号で奥州浜街道の事例を紹介しました。今回の事例についても、建主である村田の商人や、普請にあたった職人たちがどのような考えで家造りをしたかという事を、考えてみるきっかけとなりそうです。

 その一方、今回の損傷が一見して「目立つ」ものであることも確かです。前述した破損の特性は、所蔵者の方々も含め、現代に暮らす私たちの多くは認識していないため、実際には修覆は不可能だと判断してしまう場合が多いと思われます。応急診断による「危険」の赤紙は、伝統建築の解体に拍車をかけることになります。この問題についてはメールニュース99号で指摘しておりましたが、歴史資料を主な保全対象として活動してきた私たちがどのように関わり合っていくかは、まだ結論が出せていません。とはいえ、事態の深刻さをふまえ、ひとまずは応急修覆の方法などについて、専門家と相談しながら検討してきたいと考えております。

■先祖伝来の「宝」を維持する難しさ−岩沼市

 4日午後は岩沼市の視察を行いました。岩沼市では事前に事務局で所在を確認していた6軒の旧家について、地元の文化財保護委員の方にご案内いただいて訪問しました。各家の皆様には、災害下の突然の訪問にも関わらず快く対応していただきました。

 訪問した各家には、それぞれ土蔵や伝統技術で建てられた主屋などが残されていましたが、村田町と同じく土壁の崩落や損傷が目立ちました。中にはすでに応急危険度判定がなされ、「赤紙」(危険診断)が貼られたものもありました。とはいえ、こちらも致命的な損傷を受けた事例は少ないように見えます。所蔵者のお一人は、土壁は崩れたが、そのおかげで中の柱が健全なことがわかったから、取り壊さずに修理します、ということでした。

 一方で、自力での修覆が難しいこともまた確かです。阿武隈川沿いの旧家には、江戸時代の建物や蔵が残されています。家の方のお話では、これらは今回の震災以前から痛みが目立つようになっていた、先祖から伝わってきた建物だから大事にしたいという気持ちはあるが、これ以上個人で維持していくのは限界に近いというお話でした。

 仙台東部道路沿いにある別のお宅では、津波が庭にまで迫っていましたが、かつて地元特産品の集荷などにも使われたという倉庫や主屋などは大きな破損を免れました。しかし、地震で築100年以上の土蔵の壁が全面にわたり崩れてしまい、柱がむき出しになっていました。御当主によれば、修覆にお金がかかるだろうから解体せざるを得ない、とのお話でした。土蔵には多くの古文書などが保管されているとお話だったので、解体の際には我々に史料保全を行わせてほしい旨をお願いしてきました。

■津波が襲った阿武隈川河口の町−亘理町荒浜

 岩沼市とは阿武隈川を挟んだ南岸に位置する亘理町は、今回の大地震による津波被害が甚大だった地域です。今回の視察では、阿武隈川河口の荒浜地区を訪れました。

 ここには、数年前に古文書の調査におたずねしたM家があります。阿武隈川舟運の差配役を務めた同家の古文書は、一部が町の資料館に寄託されていますが、ご自宅には江戸時代後期から明治時代初めの舟運に関わる史料が残されていました。元の母屋を解体する際、処分するには惜しいのでとっておかれたというふすまの下張りです。私にとっては、下張り文書の解体と整理を初めて経験した調査であり、史料の中には故郷の福島県北地方のなじみ深い地名がたくさん出てくるという点でも、思い出にのこる活動でした。

 荒浜地区も、巨大津波の爪痕が各地で残されていました。前日の北上川と同様、高さ6〜7メートルはある阿武隈川の土手は津波で大きくえぐり取られていました。M家の主屋はほぼ原型のままで残されていましたが、一階全体が浸水した跡が残っていました。家にはどなたもいらっしゃいませんでした。史料の所在は定かではありません。

 辺りのいくつかの家屋には、その中で犠牲となった方々を収容した目印である、白いテープで作った「×」印が貼られていました。私たち一行に声をかけてくれた地元の方のお話によれば、高齢者の方を中心に避難が遅れた方が多かったとのことです。M家の御当主は、津波の被災は免れ、避難所で元気にしていたが、その後疎開された先で亡くなられたらしい、との事でした。

 私たちは集落の一角に、用意していた献花を捧げ、帰路につきました。資料レスキューの成果と、所蔵者の方との悲しいお別れという、二つの経験をした視察となりました。


100号(2011年4月6日)

東日本大震災 被災地より(その1)
石巻市街地・雄勝町・北上町

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。本メールニュースも100号となりました。90号を過ぎたあたりから、記念の100号をどのような内容にしようか事務局で話し合っていました。その100号は、3月11日に発生した大地震における歴史資料レスキューの被災地レポートとなりました。支援者の方に車を御提供いただき、4月4日に石巻市街地、同市雄勝町、同市北上町の三ヶ所を、今回初めての現地視察として事務局4名で訪れました。

■大津波に耐えた土蔵−石巻市街地・4月4日

 4月4日は、未曾有の津波被害を受けた地域の一つである、宮城県石巻市の視察でした。

 三陸自動車道を東に向かい、矢本パーキングエリアを過ぎると、徐々に水田への浸水や、津波で流されたがれきや車が見え始めました。石巻河北インターチェンジを降りると、道路には津波による砂の跡が残されています。市街中心部に近づくにつれ、道路の両側には津波を受け廃棄される生活道具が、うずたかく積み上げられるようになります。石巻市中心部は、つぶれた家屋や自動車、津波でえぐり取られたアスファルト舗装、なぎ倒された電柱や信号機で、車のすれ違いが難しくなる状況でした。しかし、市街地はまだ建物の形は残っています。石巻市街地のシンボルである日和山から海岸線までの一体は、文字通りがれきの山になってしまっていました。
     
 (写真左)がれきの山となった海岸部   (中)砂地に残された「SOS」  (右)津波に耐えた土蔵 
 
 石巻市街地では、地元の郷土史サークルの方から救援要請のあったH家を訪問しました。同家の主屋は大津波で押しつぶされてしまいましたが、数年前に耐震補強をされたという2階建ての土蔵は、押し流された数軒の家屋を食い止め、奇跡的に倒壊を免れていました。1階は浸水しましたが、2階部分は浸水もなく、古文書などはほとんど無傷の状態で保管されていました。これらの資料はレスキューを行い、東北歴史博物館に一時保管する方向で対応することとなりました。

■消えた街・消滅した資料−雄勝町・北上町

 4日午後には、市街地から北上して石巻市雄勝町と北上町に向かいました。両町では、合併前の北上町史編さん事業などで保全した数家の古文書資料の現状確認を行うことにしていました。

 雄勝町へは、まず石巻市河北町を経由し、北上川(追波川)の堤防上に作られた道路を通って新北上大橋まで進んでいきます。堤防に上がってしばらく進むと、ヨシ原が津波でなぎ倒され、押し流された船が見え始めます。松の木の大木は、河口にあった防砂林のものでしょか。その後、新北上大橋に近づくと風景は一変していました。津波が南岸の堤防を完全に破壊し、その側の住宅や建造物は倒壊していました。水面すれすれに設けられた仮設道路は、満潮の時間帯が近かったこともあって、路肩が水に浸っています。さらに、新北上大橋は北側4分の1程が押し流され、数百メートル上流にトラスの残骸が落ちていました。

 雄勝町市街地の被害はさらに壊滅的なものでした。学校や公民館など数棟を除き、建造物は跡形もなく消えていました。3階建ての観光施設だった建物の上に観光バスが乗り上げている、などという光景を目にするとは、全く想像していませんでした。時折行き交う緊急車両のほかは人影もほとんどありませんでした。

 同町のN家は、戦国末期以来の地域有力者で、2000年から5年間の北上町史編さん事業で1万2千点あまりの古文書を整理・撮影しました。津波でえぐられた波打ち際の道路を進んでたどり着いた、そのN家の江戸時代に立てられた主屋と土蔵は、礎石を残して跡形もなく消滅していました。そのような状況であろうことは、事前の航空写真などの情報で把握してはいました。一方、先ほどのH家の状況もあり、わずかな可能性に期待してもいました。しかし、現実に広がる光景はそれを容赦なく打ち砕くものでした。それでも、なんとか一点でも資料を見つけたいと、がれきの中を必死に探し続けたのでした。 

   
 消滅したN家の土蔵跡  被災前の土蔵(07年4月)
 新北上大橋が落橋したため、北上川北岸の北上町へは一旦上流まで戻って川を渡ります。北上町も、橋より東側の地域は壊滅的な被害を受けていました。同町のK家の資料は、同町総合支所の方からの紹介で2年前に保全活動を行いましたが、津波で失われました。時間の関係ですべては今回は確認できませんでしたが、北上町史編さん事業の際に整理・撮影した他の古文書も、厳しい状況にあることは確実です。さらに、総合支所庁舎で保存されていた町史編さん時に収集した史料のデータベースを保管したサーバも、10メートルを超える津波に襲われた庁舎ごと失われてしまったとのことです。

 私事を記すことをお許しいただきたいのですが、私が宮城県で初めて本格的な自治体史編さん事業に参加したのが北上町史でした。事業では、今回訪れた北上町と雄勝町の所蔵者方で、所蔵者や地元の方々と協同でデジタル技術を活用した史料保全活動が行われ、調査成果の還元を常に行いながら編さんが進められました。ここで培われた保全活動のスタイルは、2003年に発足した宮城資料ネットによる「宮城方式」の原点の一つでもあります。その地域の史料のほとんどが消滅したという事実は、私自身にとっては人生の一部をもぎ取られてしまったのと同じです。それだけではなく、資料ネットにとっても原点となった地域の歴史資料の多くが、この大震災で永遠に失われてしまったのでした。 

■関係者の無事・残されたデジタルデータ

 今回訪れた各地では、幸いなことに所蔵者や関係者の方々は全員御無事でした。所蔵者の方々は、全員が被災後一ヶ月近くたつ現在でも避難生活をされています。困難な状況にあることは想像に難くありませんが、訪問した私たちを快く迎えてくださり、再開を喜び合うことができました。

 また、雄勝町と北上町の所蔵者の方々からは、震災前に私たちがデジタル撮影を行っていたことに対する感謝のお言葉もいただきました。「史料は無くなってしまったが、その前にきちんと撮影しておいてもらってよかった」、「落ち着いたら、先生たちが保管しているデータをぜひ提供してほしい」。

 私たちはこの8年間、行政や市民の方々と協同で、全力で活動にとりくんできました。それでも今回の大震災までに、今回被災地となった地域のすべてをカバーすることはできませんでした。しかし、今回のケースでは、仙台にあるデータは震災を免れました。そのデータは、やがては所蔵者や地域へとお返しすることになります。なぜ「災害「前」の保全活動」を行わなければならかったのか、これからの活動にどのような意義があるのか、悲しい経験を通じて、私たちも改めて認識することになりました。

 震災後、いまこの瞬間も刻一刻と史料は失われつつあります。そのような史料を一点でも保全し、記録化してゆく。私たちは今回の経験を乗り越え、着実に活動を進めていこうと考えております。引き続きの御支援と御協力を、心よりお願い申し上げます。



99号(2011年3月29日)

東北・関東大震災 歴史資料・文化財被災状況の概況報告

 宮城資料ネットの平川新です。

■東北・関東大震災の被災状況

 ガソリンがないために動けない事務局では、かつての調査先や教育委員会、郷土史家の方々などに電話をして情報を集めるとともに、地震後に撮影された衛星画像から調査先や文化財の所在地を特定して現況を把握する作業を続けています。これまでに約300件近くの情報を集めました。その概要をお知らせいたします。

*沿岸部

 大津波に襲われた沿岸部のうち、宮城県の気仙沼から山元町までの地域で古文書所蔵者のお宅が10軒ほど消滅してしまいました。私たちが以前に調査した旧家なのですが、お屋敷が跡形もなく消えてしまった衛星画像を見ると慄然とします。中にはかろうじて津波から免れたものの、地震によって土蔵が大きく傾いたというお宅もありました。そのお宅の蔵には、近世初頭から戦後までの数万点におよぶ史料が段ボール箱に詰められて収納されています。はたして、それらはどうなっているのか、早くレスキューに駆けつけたいという思いが募ります。

*内陸部

 メディアでは福島原発と大津波の報道が中心となっていますので、内陸部の被害報道が少なくなっています。それでもさすがに、国指定の有備館(宮城県大崎市岩出山町)が完全倒壊したことは報道されました。事務局による電話の聞き取りによると、地域によっては未指定の古民家や土蔵にも、かなりの被害が確認されています。

 2年半前の岩手宮城内陸地震では、震源地となった奥羽山脈側の地域(栗原市栗駒、同花山、大崎市岩出山、同鬼首等)が激しいダメージをうけましたが、今回は大きく揺れたものの建物被害はあまりなかったとのことでした。しかし栗原市や大崎市の西部地域では、近世後期の農家住宅の柱が折れたり、土蔵が倒壊あるいは大きく損壊したとの情報が寄せられています。また登米市の東和町地区は栗原市や大崎市よりは海寄りなのですが、建物被害は少なかったとのことです。ところが同じ登米市でも迫町では民家の被害が多く、さらに南の石巻市桃生町でも土蔵がつぶれた旧家がありました。地盤や立地によって被害の程度に大きな差が出ているようです。

 仙台市内では、足軽の内職から始まった堤焼きの登り窯6基(大正期建造)のうち3基が崩壊してしまいました。未指定ではありますが足軽町としての堤町の歴史を象徴する文化財でした。奥様は、どうすればいいのかと途方にくれておられました。

 仙台城下町としては数少ない商家の店蔵も、壁が剥落しています。仙台の南にある蔵の町村田町では、多くの土蔵に被害がでています。福島方面でも桑折町の旧家が大破したという情報が寄せられています。


■どうすれば歴史遺産を残せるのでしょうか

 調査が進めば進むほど被害物件は増えていくばかりです。修復する費用がないので解体せざるを得ない、と語っておられるご当主の話も、いくつか聞こえてきております。未指定ですが、よく知られた古建築もあります。東北関東大震災は、日本の歴史と景観を体現するあらゆる宝を喪失させようとしています。
 地域の宝、日本の宝を守るために国民や世界から募金を募り、たとえば歴史遺産基金のような、所有者の方々を少しでもサポートできる体制をつくりだせないものでしょうか。よいお知恵がありましたら、ご提案いただければありがたく思います。


98号(2011年3月27日)

東北・関東大震災 津波浸水域図を見て

 宮城資料ネットの平川新です。

■津波浸水域図を見て

 2年ほど前に、仙台の南にある岩沼市の阿武隈川氾濫ハザードマップの浸水予想図を眺めていて気がついたことがあります。岩沼市には奥州街道の岩沼宿がありましたが、同街道の道筋と岩沼宿の部分は、周辺に比べて浸水度が低い色に塗り分けられていたのです。これを見て宿場や街道は、浸水しにくい地形を意図的に選んで設計されているのではないかと感じておりました。そうした目で各地の宿場や街道、城下町などの地形・立地などをとらえなおしてみると、なぜその場所を選んだのかについて、新たな知見が得られないだろうかとも考えておりました。

 このたびの大津波の被害地域を把握するために、資料ネットスタッフの蝦名裕一さんが津波浸水域図(宮城資料ネットHPにアップ)を作成してくれたのですが、これを皆で眺めていて、2年前と同様の印象を抱きました。

 2枚の地図は、名取市・岩沼市および、さらに南の亘理町・山元町の津波浸水域図です(添付ファイル/拡大版はHP版を御覧ください)。国道4号線が仙台から南に向かって名取・岩沼を通り、阿武隈川に行き当たるところから街道は西と南に分岐しています。西に折れて白石に向かう道筋が奥州街道(国道4号)で、南に走っているのが浜街道(国道6号)です。バイパスもありますので現在の国道と江戸時代の道筋とはズレたところもありますが、旧道のおおよそのルートを反映しています。

 旧道は阿武隈山地に沿うように走っています。奥州街道の宿場としては長町宿、中田宿、増田宿(名取市)、岩沼宿があり、浜街道では亘理宿、山下宿(山元町)がありました。これらの地域を津波浸水域図で見てみると、宿場と街道のほとんどは津波の浸水域からズレていることがわかります。こうした事実を前にすると、江戸時代の街道は平場でも山裾に沿っているところが多いという一般的な理解で済ますことはできないのではないか、と思われるのです。平常時には気がつかなかったのですが、あたかも大津波を想定して宿立ての場所や街道の道筋を選んだのではないか、とすら考えたくなります。


 
 奥州では慶長16年(1611年12月2日)に地震があり、大津波が発生しています。仙台領内の死者1783人、盛岡藩や津軽藩の沿岸部でも多数の犠牲者が出たとされています。それからちょうど400年目の今年、またしても3万人をこえる津波の犠牲者を出したのでした。


 建物が大破した研究室には入れず、図書が散乱した大学図書館も利用不可ですので、浜街道の亘理宿や山下宿の開設時期までは調べることができません。しかし奥州街道のうち、中田宿、増田宿、岩沼宿は慶長15年(1610)段階にはすでに存在していたとされています。そうであれば、宿立てのあとに慶長津波が襲ったことになります。同津波の浸水域は不明ですが、もし当初から現在地に宿立てされたのだとすれば、見事なほどに大津波の被害を免れる場所を選び、街道をつくったといわざるをえません。

 現在私たちは、これらの宿場は最初からこの地にあったと考えていますが、この津波浸水域図を眺めていると、あるいは別な可能性も想定しておくべきかもしれません。つまり慶長の大津波を経験したことによって、宿場や街道が、津波の到達しにくい、より山沿いに移動した、という可能性についてです。検討してみる価値は十分にありそうです。

 3月23日の東京新聞Web版に、福島原発を設計した東芝の元社員の驚くべき証言が記載されています。元社員はマグニチュード9を想定して設計するよう進言したが、上司は「千年に一度とか、そんなことを想定してどうなる」と一笑に付したということです。

 四百年前の地震は慶長の大津波を引き起こして多大な犠牲者を出し、千年前の貞観津波(869年)では陸奥国府のあった多賀城まで押し寄せて「溺死者千許」に及ぶ犠牲者を出しています。東芝の上司の発言は、そうした歴史の経験を完全に無視したものでした。福島原発設置からわずか40年にして、その「千年に一度」の大災害に見舞われてしまったのです。歴史を無視した結果、多くの人々の生命が重大な危機にさらされてしまうことになってしまいました。これを大人災、大不祥事といわずして何というのでしょうか。




 先に紹介したように、江戸時代の宿場や街道には今回の大津波も到達しませんでした。そうした立地をみると、過去の先人のほうが、よほど歴史の教訓を活かしているのではないかと思わざるをえません。


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NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク
Tel 080-1666-5919(臨時・代表)
E-mail office○miyagi-shiryounet.org ○=@

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97号(2011年3月26日)

 大地震より2週間

 宮城資料ネットの平川新です。3.11大地震から2週間が過ぎました。被害者の数は増え続けるばかりです。

■宮城資料ネットの動き 

*宮城県および文化庁と、歴史資料・文化財の救済体制の構築について検討しております。それにあたり文化庁は、「東北地方太平洋地震文化財等救援事業」として「救援実行委員会をおき、指定文化財・未指定文化財を問わず救済対象とすることを表明しました。文化庁からの協力要請は文化財保存修復学会、全国美術館会議、全国歴史資料保存利用機関連絡協議会(全史料協)ほかの歴史・美術関係諸機関に行われるとのことです。呼びかけ対象はさらに拡大していくものと思われますので、みなさまにはぜひご協力をお願いしたいと思います。

*現在、私たちのところには全国からレスキューの応援に駆けつけたいというメールがたくさん届いております。しかし今はガソリンの入手もままなりませんので、お待ちいただくしかありません。今後の段取りとしては、歴史資料・文化財等の被災状況を確認したうえでレスキューや保全が必要な物件や個人宅を特定し、さらに地域ごとにスケジュール化して人員の派遣等を調整していくことが必要になります。そうした段階で皆様に人員の派遣やご参加を呼びかけることになろうかと思います。

*レスキューは個人蔵のものだけではなく、公的な資料保存機関等も対象になりす。気仙沼市立のリアス・アーク美術館や南三陸町の郷土文化保存伝習館などは高台にあるので浸水していない、という情報もあります。しかし海岸沿いにあった石巻文化センターは、巨大な津波にのみこまれてしまいました。空中写真を見ますと、周辺の住宅は跡形もなく破壊されて流出し、同センターと隣の市立病院の鉄筋コンクリートの建物しか残っておりません。先日、市立病院の内部が破壊されている映像が流れていましたので、同センターも同様なのではないかと思われます。じつは同センターの職員には、安否をまだ確認できていない方々がおられます。無事に避難されていることを祈るばかりです。

 同センターは市域の古文書等のほかに、石巻在住の故毛利総七郎氏が70年をかけて収集した数万点におよぶ毛利コレクションを収蔵しておりました。現地に入ってみないと、これらがどうなっているのか確認のしようがありません。もし、いくらかでも歴史資料や文化財が残っていれば搬出したいと考えております。これは沿岸地域にある個人所蔵者宅も同様です。

*このように、津波災害によって膨大な水損資料が発生していると思われます。そこで先般、県文化財保護課に、救出した水損資料の一時保管場所として、急速冷凍施設のある水産会社や冷凍食品会社などに協力を求めてくださるよう依頼をしました。確保できるかどうかはわからないが探してみる、とのご回答をいただいております。もし確保できれば、東北歴史博物館には真空凍結乾燥機がありますので、レスキューした水損資料は順次同館に移送して保全することになると思います。

■津波浸水域図

 津波浸水域図を宮城資料ネットのホームページにアップしています。地震後に国土交通省が撮影した空中写真をもとに、宮城資料ネットスタッフの蝦名裕一さんが地図ソフト「カシミール3D」を使って作成しました。 国土地理院も津波範囲概況図を公表していますが、当資料ネット作成図は等高線1mごとに色分けしておりますので、浸水域と地形との関係を明瞭に読み取ることができます(拡大して御覧ください)。全体としてほぼ海抜2mレベルまでは浸水し、場所によっては3〜4mあたりまで到達していることがわかります。ご利用ください。



96号(2011年3月21日)

 震災より十日 現状報告


 宮城資料ネットの平川です。
 
 日ごとに犠牲者の数が増えていくのを間近で聞くのは、あまりにも現実感がありすぎます。原発汚染による避難のために福島では無人の地域が拡大する一方です。こうした地域では、津波・地震の犠牲者の救出もできず、家畜やペットも置き去りにされたままです。放射能汚染ですから一時的な「退避」ですむことはありません。現在の汚染レベルでも相当の期間戻ることはできないでしょう。もし原子炉のメルトダウンということになれば、あらゆる生物が消えた死の地域になってしまいます。被害は東京を含めた東日本一帯におよぶことになると思います。日本沈没にならないことを祈るばかりです。

■宮城資料ネットの動き
 ガソリンが入手できませんので、宮城資料ネットでは現在、以下のような活動をおこなっております。

 ・宮城資料ネットのHPに「古文書を捨てないで!」の呼びかけ文を掲載しました。
  (http://www.miyagi-shiryounet.org/)。このほか、自治体にも広報や町内会を通じてこうした呼びかけをし てくださるよう要請しております。 

 ・事務局では文化庁・宮城県・仙台市等の文化財担当者と連絡を取り合い、今後のレスキューおよび被災 状況調査の体制づくりを進めています。

 ・事務局スタッフは、自転車や徒歩で仙台市青葉区の近場の史跡・古建築等の被災状況を確認しています。
 ・資料ネット会員その他から、自宅や職場近辺の史跡・古建築等の被災状況の報告をいただいています。

 ・事務局スタッフは、これまで調査した旧家の被災状況を、国土地理院による津波後の空中写真やグーグルアースなどを活用して確認する作業をしています。沿岸部のお宅では津波にのまれて跡形もない所が少なくありません。いっぽうお屋敷が残っている姿を確認できるとほっとします。

 ・国土地理院の空中写真を活用して津波浸水域のマップを作成しています。参考例として仙台市域のマップを添付しました(図/宮城資料ネットのHPにもアップしております)。東北の津波被害地全域版の作成を進めております。このマップを活用しながら、歴史資料所蔵者宅の調査やレスキューを展開する予定です。

 ・地域史研究者の方から、筆耕史料が津波で浸水したといった連絡もいただいております。筆耕史料のなかには現物の史料は津波前にすでに失われていたものもあり、筆耕史料自体が貴重な歴史資料となっております。これらも今後のレスキューの対象にしたいと考えております。

 ・大地震前までの調査でご協力いただいた自治体の担当者とも連絡をとっています。文化財担当者も人命救助や避難所詰めが優先ですが、そのかたわら、歴史資料・文化財の被災状況についても情報収集に努力してくださっています。

■宮城資料ネットの連絡先
   
      eメール/ office*miyagi-shiryounet.org (*=@)
 
 事務局の固定電話はまだ不通状態ですので、急遽、専用の携帯電話を調達しました。下記の番号とアドレスです。こちらもご活用ください。
  
       080−1666−5919(docomo)
        miyagi-shiryounet*docomo.ne.jp (*=@)



95号
(2011年3月17日)

 東北関東大震災より一週間経過 現在の活動報告


 宮城資料ネットの平川新です。

 東北関東大震災から1週間が過ぎました。想像を絶する被害に言葉を失うほどです。私の知人にも安否を確認できない方々がたくさんいます。

■文化庁の歴史資料担当の方と連絡をとりました。
 文化庁は現在、阪神大震災のときと同様に、全史料協や諸団体・諸大学等と連携しながら、東北関東大地震へ対応する方策を検討しているとのことです。文化庁からお声がけがありましたさいには、ぜひ皆様のご協力をお願い申し上げる次第です。

■東北地方の大地震・大津波としては、『日本三代実録』に出てくる貞観地震(869年)や江戸時代初頭の慶長地震(1611年)が知られています。宮城資料ネットの事務局スタッフは、東北大学防災科学研究拠点グループにも参加しておりますので、これら過去の大地震・大津波の研究を文理連携で実施する準備を進めているところでした。記録や地質調査でみる限り、太平洋沿岸部の宮城県域では大津波が内陸3〜4kmまで押し寄せていることが判明しております。さらに調査を進めて津波地図の精度をあげ、来たるべき大地震と大津波に備えた防災地図を作成する予定にしておりましたが、それよりも早く実際の大津波に見舞われてしまいました。
 津波研究者は過去と同様の津波が発生する可能性を指摘しておりましたが、現在では沿岸部まで住宅地が広がり、被害を拡大する結果になってしまいました。開発との兼ね合いは非常にむずかしいところがありますが、結果からいえば過去の大津波の教訓がいかされていなかったということになります。四、五百年に1度の大地震・大津波に備えた社会を、私たちはこれからつくることができるのでしょうか。

■ガソリンが手に入りませんので移動が制約され、被災状況調査が実施できません。そのため現在は、仙台市内の近場の施設や旧家の被災状況の把握と、今後の広域的な被災状況調査のための準備、宮城県・仙台市の文化財部局や博物館、文化庁等との連携体制作りをおこなっております。

■資料ネット事務局のあった東北アジア研究センターの建物が大破して立ち入り禁止になりましたので、学生支援部のご協力を得て、現在下記に臨時オフィスを開いております。宮城資料ネットの事務局員もここに詰めています。

 名称:東北大学防災科学研究拠点臨時オフィス
 場所:東北大学 川内北キャンパス 講義棟A棟2階 資料室
         *臨時オフィスに固定電話はありません。
     *平川および佐藤の研究室の固定電話はつながりません

94号
(2011年3月15日)

   3月11日 東北・関東大震災 各地で未曾有の被害

 みなさま

         宮城資料ネット理事長 平川新

 3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とする大地震が発生しました。この東北・関東大震災では、御承知のように未曾有の被害が出ております。被災地にいらっしゃる方々は、ご家族の皆様も含めご無事でしょうか。心より御見舞い申し上げます。

 宮城資料ネットでは、当日も事務局のある東北大学東北アジア研究センターにて古文書資料の撮影作業を行っておりました。激しく、長い揺れが続きました。事務局の部屋では重い中性紙封筒やコピー用紙の箱、プリンタが飛んでくるという危険な状況になりました。事務局スタッフと、当日作業に参加していた5名、センター教員・職員はすぐに屋外に避難しました。全員無事でしたが、エレベータ棟が激しく損壊し、5階建ての建物のうち、4階・5階も破損しました。事務局そのものが被災して室内は散乱し、使えなくなってしまっております。事務局からの連絡が遅れましたのは、インターネット環境が破壊されてしまったからです。

 建物そのものは3月15日現在も立ち入り禁止ですが、3月12日より1日20分程度の時間限定で、少しずつ最低限の器材・データ等の搬出を行っています。いまも大きな余震が続いていますので危険な作業となっております。

 事務局スタッフ4名(平川、蝦名、天野、佐藤)も被災者となりましたが、目下のところ東北アジア研究センターの外で事務局体制の構築に努めているところです。関係者のご協力をいただき、3月15日時点で事務局スペースと、情報収集・発信のためのインターネット環境にようやくめどが立ちつつある状況です。

 この間、3月14日には宮城県の文化財保護課と保全活動の打ち合わせをおこない、協同で対応するという方針で合意しました。一方、今回甚大な被害を受けた沿岸部には当分近づかない方がいい、という助言をいただきました。また震度7を記録した栗原市など内陸部へも交通が寸断されています。さらにはガソリンが枯渇する状況で、車輌での移動が制限されており、十分な活動が展開できないる状況にあります。

 また3月15日には、仙台市博物館・市史編さん室と、仙台市教育委員会文化財保護課に、今後協同して保全活動を実施したい旨をお願い、合意いたしました。具体的な対応に移るにはまだ時間がかかりそうですが、活動のための枠組み作りを着実に進めております。
 
 これまでの活動でお世話になった所蔵者の方・地域の方・行政の方も被災の安否確認は出来ておらず、非常に憂慮されます。

 関連して、皆様にお願いいたします。

■ネットニュース配信者の皆様
 各地の被災状況など、ご存じの情報があれば、どんな小さなことでも結構ですので、事務局まで御連絡いただければ幸いです。