2011年5月 2011年4月 2011年3月
 2010年  2009年  2008年  2007年  2006年  2005年  2004年  2003年 HOME
 2011年4月   5月へ 114号 113号 112号 111号 110号 109号 108号 107号
                     106号 105号 104号 103号 102号 101号 100号 3月へ



114号(2011年4月29日)

東日本大震災・旧岩切郵便局ふすまの下張り文書はがし


         宮城資料ネット会員 佐藤麻里(東京学芸大学大学院博士後期課程)

 4月23日(土)、24日(日)の2日間にわたり、資料ネット事務局で先日のレスキュー活動により持ち込まれたふすま解体・下張り文書はがしが行われました。私は今回はじめて、ボランティアとして資料ネットの活動に参加させていただきました。その活動の様子について、報告させていただきます。

■作業の概要

 今回の下張り文書はがしの対象となったのは、4月6日(水)の歴史資料保全活動の際に搬出された旧岩切郵便局(仙台市宮城野区)のものを中心とする、約20枚のふすまです。旧岩切郵便局の建物は、今回の震災を契機に解体されましたが、多数の下張り文書を含む襖がレスキューされておりました(詳細は宮城資料ネット・ニュース102号をご参照下さい)。
 
 組子から下張りをはがす作業
(撮影:斎藤秀一)

■作業の手順

 下張り文書はがしは、事務局の蝦名裕一さんの指揮のもと、ボランティア計16名で行いました。作業の手順は、@上張りをはがす→A下張りを水分で湿らせ、扇柄やヘラなどで剥がす、というものですが、最初は手探りの部分も多かったです。試行錯誤を繰り返し、互いにより良い方法を思いついては提案しあった結果、下張りをはがすためにはとにかく紙を湿らせることが大事だとわかり、そのためにより効率のよい方法が編み出されていきました。下張り文書の点数も多かったことから、一枚一枚の文書にはがす作業は後日にまわし、今回の作業では組子から下張りをはがすところまで確実に終わらせることにしました。その結果、約20枚の襖から下張りをはがすことができました。私は下張り文書はがしを行うのが初めてで、最初は難しいと感じることも多かったですが、皆さんのアドバイスのおかげで作業終盤にはコツを掴めました。次回以降もこうした作業参加し、習得した技術を活かしたいと思います。

■下張り文書について

 旧岩切郵便局の建物は、明治35年(1902)に建設され、宮城県の近代化遺産に登録されたものであり、松島に近世・明治期に存在した旅館「扇屋」の一部が移築されたものだとわかっています。そのため今回搬入された襖の下張りには、岩切郵便局時代のものや、近世の岩切周辺を知る古文書や書が含まれている可能性が高いと期待されていました。今回は組子から下張り全体を剥がすことに専念したため、下張りにどのような文書が使用されていたか、詳細に知ることはできませんでしたが、少し見ただけでも、実に様々な史料が含まれていることがわかりました。
 
 下張りから現れた多様な文書群
(撮影:斎藤秀一)

 まず、建設翌年以降の岩切郵便局の業務日誌、明治14年〜15年(1881〜82)の「人足帳」、さらに松島の旅館「扇屋」時代の文書が見つかりました。岩切郵便局の襖も、「扇屋」から移築したものであることが裏付けられます。また、荒所起返が実施された枝野村(現宮城県角田市)の天保11年(1840)の小割帳、嘉永5年(1852)の小斉村(現宮城県丸森町)の宗門人別帳など伊具郡の村々や、盛岡藩閉伊郡(現岩手県)の地名が見られる史料が発見され、古紙の流通事情などを考えさせられます。仙台藩郡奉行の職務に関わる史料などもありました。仙台藩政を窺い知る史料は貴重だとのことで、今後さらなる分析が待たれます。その他にも手習いや書、書状など、多種多様な古文書が下張りには用いられていました。旧岩切郵便局の建物が今回の震災で失われてしまったことは残念ですが、このような貴重な歴史資料を保全できたのは本当に嬉しく、災害を乗り越え残された歴史資料を後世に伝えていくことが重要だと実感しました。

■資料保全活動について

 下張り作業の最中にも、平川新先生が石巻市で津波被害に遭った史料をレスキューしてきたということで、拝見させていただきました。一か月も経ったというのに紙がまだ湿っていること、史料から潮の匂いがすることにとても驚きました。事務局の置かれた部屋には、これまでの活動でレスキューされた様々な歴史資料が置かれており、また作業に参加された皆さんから各地の状況をお聞きし、今回の震災が歴史資料・建造物に及ぼした被害が甚大かつ広域であることを実感しました。震災の体験や生活という面において、東京にいる私が真に理解し共感することは難しいと自覚しているものの、歴史資料・建造物の保全という問題に関しては、歴史学あるいは歴史資料・建造物に関わる人間として、当事者でありたい。“現在”未曾有の大災害に苦しむ東北地方の皆様の力になり、ともに災害と向き合い、保全された歴史資料や災害の記録などの“過去”に学び、“将来”どこかで必ず起こるだろう大災害に対処できるだけの力をつけたい。そのような思いから、私は今回のボランティアに参加させていただきましたが、この2日間でその思いをより強く致しました。私たちがこのような活動をできるのも、レスキュー活動や情報収集活動の傍ら、ボランティア受け入れ体制を整備されている事務局の方々のお陰です。しかし、それはとても大変なことです。呼びかけがあった際に適切に応じることが、実は私たちに今できる一番のことなのではないかと思います。

(追記)
 今回の作業に際しては、宮城県内をはじめ、東北・関東方面からボランティアで駆けつけていただいた多くの方々のご助力をいただきました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。(事務局・蝦名記)




113号(2011年4月24日)

東日本大震災 被災地より
104年間「お宝」を守った土蔵−仙台市での保全活動

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。今回は4月22日に仙台市で実施した史料保全活動の報告です。

 幕末に仙台藩の蔵元商人などを勤めたO家の土蔵は、3月11日の本震と、4月7日の余震で、南側に大きく傾くなどの損傷を受けました。震災以前からの老朽化もあり、このほど取り壊されることになりました。土蔵には、幕末から昭和初めまでの古文書や書類、刀剣類、古美術品などが収められていましたが、古文書については仙台市史編さん事業で整理され、仙台市博物館で保管されるなど、多くの史料が震災以前に蔵から出されて保存されていました。

     
 土蔵周辺の状況を確認  中に収められていた道具類  資料を搬出する

 その一方、震災直後に御当主をお尋ねした際、明治初めに紅茶製造業を営んだ際に使った道具など、まだほかにも貴重なものがありそうだというお話がありました。そこで、事務局から、土蔵を取り壊す前に、蔵の中の道具類などを安全な場所に搬出する御手伝いをさせてほしいと依頼し、ご了承をいただきました。その結果、今回の保全活動を実施することになったのです。保全に先立って、御当主が倒壊防止のため足場を組むなど応急処置をしてくださいました。

 当日はあいにくの小雨模様のなか、東京からの参加者2名も含む14名で作業を行いました。応急処置が施されているとはいえ、傾いている土蔵での作業は危険が伴うため、中に入る人数を最小限に留め、リレー方式でひとまず敷地内の安全な場所に搬出しました。土蔵の中には、幕末から明治時代に同家が収集した多くの什器や道具類や和本、さらに若干の古文書類も残されていました。道具類の箱書きには入手した年代や産地が記されているものも多く、これまで調査された古文書類とあわせ、幕末から明治時代における仙台商人の家財収集の実態や嗜好を知る手がかりとなると考えられます。
   
 リレー方式で運び出す  搬出した資料を清掃する

 今回取り壊しとなる土蔵は、1907年(明治40)に完成したそうです。3年間かけて作られた土蔵には、土壁を作る際、近所の子供たちを集め、泥玉を壁に投げつけさせた、といったエピソードも伝えられています。その土蔵は、完成後に起こった、1945年(昭和20)7月10日の仙台空襲、1978年(昭和53)年6月12日の宮城県沖地震、そして今回の東日本大震災といった大災害から、古文書や家財を見事に守り抜いたのでした。

 時を経て、地域にとっての「お宝」になったこれらの史料を、今後どのように保全してゆくのか。人々の力を合わせて史料を保全する新しい仕組みを考えることが、今回の震災をもって役目を終える土蔵に対するなによりの餞となるのではないかという思いを強くし、現場を後にしました。

 
 保全を終えてたたずむ土蔵



112号(2011年4月23日)

東日本大震災・伝統的建造物被災状況調査

 石川県金沢市で建築の設計をしております、橋本浩司です。社団法人金沢職人大学校で助手を勤めながら、伝統的建造物修復士として町家や民家、土蔵の修復などに従事しております。今回、ご縁があり宮城資料ネットの歴史資料保全活動に同行させていただき、4月12日から14日の3日間に渡り、建築家の佐藤敏宏氏および京都在住の建築構造家、満田衛資氏(12日のみ)、そして妻であり庭の設計を行っている中村彩と共に、伝統的建造物の被災状況調査を行いました。

■4月12日/石巻市

 
千枚通しで材の腐朽具合を確認する
 まず、千石船に関する資料を所有されている旧家に向かいました。大津波による瓦礫の山であたりが埋もれている中、その旧家の土蔵だけが運良く残ったのですが、その被災状況を調査いたしました。柱は梁などの軸組み部分に関しては、全く問題ありませんでした。入り口の下屋と呼ばれる部分は流されてしまいましたが、土蔵本体で損傷しているのは、大きく分けると置屋根と壁の部分です。

 置屋根海側の瓦とそれを支える垂木や母屋という部材が、津波による漂流物で部分的に破損していました。これは比較的安価に修復可能です。折れた母屋の補強方法については、京都から駆けつけられた構造家の満田氏と検討いたしました。
壁に関しては、漆喰や海鼠(なまこ)壁などの表面材が剥離しているだけで、その下地となる土壁はしっかりしており、こちらも大掛かりな修繕は不要と判断しました。ただ、小規模でも土壁の修繕はある程度費用がかかります。

 なお、この土蔵は昨年腰壁部分に鉄筋コンクリートで構造補強が行われていたのですが、同じように補強された隣の土蔵が津波でつぶされています。周囲の状況から見ますと、残ったのがまさに奇跡的に思えます。また、瓦礫の中にたくましく建っているこの土蔵を見ていると、どこか復興の象徴になりうる気がしてなりません。なんとか修繕して残していけるよう、今後の活動が重要になってきます。またこれらの調査内容は調査報告書に簡単な図面と共に記載して、後日蔵の所有者の方にお渡しすることになっております。

■4月13日/村田町

 
 漆喰壁および海鼠(なまこ)壁の崩落
 次に向かったのは、柴田郡村田町です。ここは蔵の町として知られておりますが、その蔵を中心に建物の被災状況を調査いたしました。店蔵の立ち並ぶ景観は大変貴重なものであり、宮城県では唯一、国の重要伝統的建造物群保存地区の候補にあがる街並みとのことです。

 実際に敷地内に入らせていただいて調査したのは9件です。数が多いので一つひとつに時間をかけられなかったのですが、総じて構造的には問題ないものの、表面の漆喰および海鼠壁の剥離、また土壁の剥離、崩落が多く、根本的な修繕には時間と費用がかかりそうです。また、実際に応急修理を地元の工務店にお願いしたところ、5月末まで忙しいと断られたケースもあり、職人不足も今後問題になってくるかもしれません。

 
破損状況を御当主と確認
 困難な道であることは間違いないと思いますが、宮城県におけるこの街並みの価値を考えると、できるだけ安易な解体は避け、長期的にしっかりと修繕していくことが強く望まれます。なお、作業後に被害状況調査の概略と修繕する際に必要となる壁土の保存方法などを記した文書を作成しました。後日村田町の蔵所有者に配布する予定です。

■4月14日/岩沼市

 最終日は午前1件、午後1件というスケジュールで、比較的時間をとって調査させていただきました。14日の調査に関しては、宮城資料ネット・ニュース第105号にて蝦名祐一さんが詳しくご報告されていますので、そちらをご参照ください。

 その報告にもありますように、ここでは幾つもの建物を維持しておられる旧家の方の苦悩を感じざるを得ませんでした。地域の記憶が凝縮されている歴史的建造物やその風景は、次の世代に引き継いでいくことが望まれます。しかし建物が立派なものであればあるほど、個人での維持管理にはどうしても限界があります。その場合は、その地域内での移築の可能性などを探り、それが無理ならきちんと現状調査を行い図面などを作成し、資料として後世に残すことも検討していければと思っています。こちらの調査報告書は後日作成して資料ネットを通じてご当主にお渡しする予定になっています。

 以上、3日間にわたり土蔵を中心に調査をさせていただきましたが、まだ建物に対する支援金などが当然全く見えない状況の中、正直に申しまして「薬をもたない医者」のような気持ちでした。実際に問題を解決する方向、つまりはどう修復可能な状況にもっていけるか、という課題に向けて、今後検討していければと強く思います。

 なお、この調査がとてもスムーズに運び、何も問題なく終えることができたのは、宮城資料ネットの先生方およびスタッフの方々による事前の細やかな段取りがあったからこそであり、未曾有の大震災後にもかかわらず対応してくださった調査対象建物の所有者の方と共に、深く感謝いたします。

(追記)
 前号に引き続き、4月12日から14日に実施した伝統的建造物の被災調査について、橋本浩司さんにご寄稿いただきました。橋本さんには調査終了後、早々にご寄稿いただいておりましたが、事務局の都合で配信が遅れました。この場を借りてお詫び申し上げます。(佐藤大介記)



111号(2011年4月22日)

東日本大震災 被災古建築調査の開始にあたって

 NP0法人宮城歴史資料保全ネットワーク(以下宮城資料ネット)関係者の皆さん初めまして。私は福島市に暮らしている佐藤敏宏(活動家・建築家・一級建築士・HP世話人)と申します(私の活動はこちらのサイトにてご覧ください/TAF設計 佐藤敏宏の建築と生活 http://www5c.biglobe.ne.jp/~fullchin/p2/p-2.htm)。

 4月11日に平川新理事長より東日本大震災における歴史的・伝統的建築の被災状況調査などを依頼されました。私が全国各地から結集する建築関係者も、同様の依頼に基づき被災地での建築調査を行うことになります。

 今回は依頼の内容に基づき、金沢から古建築改修などの専門家である橋本浩司と造園家である中村彩、京都から建築構造専門家の満田衛資を集め、第1回目の調査を4月14日から14日まで行い、調査報告書を作成しました。
 
 明治の古図と建築構造を照合(満田)

 12日は石巻市門脇地区に奇跡的に残った一軒の蔵の被災状況調査と補修の方法を提案しました。13日は村田町歴史みらい館の方々と共に、武家屋敷と15蔵の被災店蔵などの調査を行い、今後の方針について相談してきました。それを基に、行政を通じて村田町の人々へ「被災蔵対策の呼びかけ」の文章を作成し配布していただきました。14日は岩沼市市史編纂室のみなさんと共に2つの屋敷を調査し、その場にある材料で応急処置を施したのち御当主の方に直接口頭で橋本から被災蔵の今後の保存をお願いしました。

 各被災地の蔵の被災状況は、地盤の多様性、建設当時の基礎構造施工技術、竣工後の保全工事の回数、それらの組み合わせによって異なっています。共通していることは塗り壁の剥落と亀裂です。それらは部材の組み合わせによって作られる木造建築が地震に遭うと水平に掛かる力を分散するため、部材がそれぞれに揺れ地震力を吸収しようとします。そのことで蔵本体の安全性を保っているので、保全が悪い蔵を除きますと骨組みが大きく損なわれている蔵は少ないように思います。
 
 現場の丸太を使いひさしの崩落を防ぐ
応急処置を施す(橋本・中村)

 蔵の仕上げである塗り壁の剥落と亀裂は、構造上の安全が保たれていても「地震で壊れた」という印象を御当主の方々に与えてしまっていました。ケヤキの巨大な柱や梁をもつ蔵や主屋などをこれから新しく建築することは不可能ですので、解体費用を補修と耐震改修費に廻すことで蔵を保全し使用し続けることをお薦めしております。なお、蔵は個別に特性が異なるので個別の対応が必要ですので、今後も調査を進め、現代工法も取り入れながら、新たな伝統的建造物の保全方法を考えていきたいと思っております。

 村田町では行政の協力を得ながら、定期的に私達や全国各地の建築技術者に呼びかけ参集していただきます。震災時に蔵を持つことで起こる様々な問題を集めたり聞き取ることで、今後これらの建物をどのように保全してゆくか、共に考え続けることにしました。お互いに語り合うことで、歴史的・伝統的建築物の置かれた問題の対応策を見出そうとしております。引き続きご支援とご協力の程、よろしくお願い申し上げます。

---
 今回の大震災に際しては、古文書などの歴史資料はもちろんですが、これまで日本の伝統的な風景を形作ってきた歴史的・伝統的建造物の取り壊しが急速に進む状況です。

 宮城資料ネットではこのような状況を踏まえ、建築の専門家に依頼し、伝統的建造物の保全や記録化などにも、可能な範囲で取り組むことといたしました。本号では建築関係者の組織化にあたってリーダー役を依頼した、TAF設計代表の佐藤敏宏さんにご寄稿いただきました。(事務局・佐藤大介記)




110号(2011年4月22日)

東日本大震災・栗原市での歴史資料保全活動

 宮城資料ネット事務局の天野真志です。

 4月19日(月)、栗原市若柳地区を中心に、歴史資料の被災状況を調査しました。今回の震災は、大規模津波の影響で、沿岸部が壊滅的被害を受けております。それとともに、マグニチュード9.0という、国内史上最大規模の地震の影響で、内陸部においても大きな被害が確認されています。さらに、栗原市では、4月7日に発生した地震の影響で、何とか持ちこたえていた建物にも被害が出たようです。
今回は、地元の郷土史研究者の方から寄せられた情報をもとに、文化庁および栗原市教育委員会と協同で被害調査を実施しました。

■若柳地区の旧家

 まず、地元の研究者の方による案内で、4軒のお宅を訪問しました。
最初のお宅は、今回の震災以前に土蔵などを解体されていたそうですが、今回の地震で昭和初期に建てた母屋の柱が折れ、倒壊してしまいました。

 次に伺ったお宅は、昭和期に建築された旧映画館です。昭和初期の若柳を象徴する建物のひとつでしたが、2度の地震で被害をうけ、解体せざるを得ない状況であったようです。ご当主によると、江戸時代から明治初めにかけて医師を勤めた家で、江戸時代の医学書などを保管しているようです。
 その次にお訪ねしたお宅では、母屋の裏手にある土蔵が完全に倒壊し、中の所蔵物を残したまま横倒し状態になっておりました。これらのお宅へは、後日改めてお訪ねし、被害の詳細を確認していく予定です。

 連続した2度の大規模地震で、同地区の古建築などは大きな被害をうけました。その影響で、多くの歴史的建造物がすでに消滅しつつあります。今後、地震に耐えた建造物を後世に残し、歴史資料を保全するための活動を早急に進めていく必要性を痛感しました。

■若柳郷土資料館

 
 倒壊した若柳郷土資料館
 同館は、古い民具や考古資料、近代の土地関係資料を数多く所蔵していますが、今回の地震で民具資料を収蔵していた部分が倒壊し、現在はブルーシートで覆われていました。
 また、展示スペースも、ガラスケースが軒並み破損し、倒れた資料を救出するのもかなり危険な状態でした。今後、倒壊部分に残された民俗資料を中心に、収蔵資料の保全作業を実施する必要があります。

■旧くりはら田園鉄道株式会社本社(くりでん)

 かつて保全活動を実施したくりでん本社も、地震の被害を受けていました。
 旧本社については、外から見た限り、数枚のガラスが割れた程度で大きな被害は無いように見えましたが、車庫は側壁が倒れかけ、工場内部も物品が散乱している状態でした。
 
 くりでん車庫の現状

■築館出土文化財管理センター

 同センターに個人宅からふすまが十数枚搬入されたとのことでしたので、文化庁の方々とともに現状調査を実施しました。ふすまに描かれた書画に大きな破損はありませんでしたが、今後修復の必要性もあるとのことで、文化庁の方から修復に関するアドバイスを頂戴しました。

 センターの収蔵物に被害は確認されませんでしたが、建物の瓦が崩落し、収蔵庫の一部で雨漏りしている状態でした。

■瀬峰公民館

 公民館裏手が崩れ、物置が土砂につぶされていました。旧家から搬出したふすまがなかにあるため、レスキューの必要があります。倒壊を免れたプレハブも、状況によっては一時避難が必要になります。

 ガソリンの安定供給、道路の復旧に伴い、保全活動の範囲も広域になってきました。今後、会員および支援者の皆様にご助力をお願いすることも増えてくると思います。1点でも多くの歴史資料を後世に遺すため、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。



109号(2011年4月20日)

急募・水損資料応急処置ボランティア

※募集は終了しました。多くの方にご参加いただきありがとうございます。

 4月25日月曜日から27日水曜日まで3日間、水損資料応急処置ボランティアを4名程度募集いたします。対象は、今回の震災で津波被害を受けた、宮城県農業高校所蔵の和本です。神戸の史料ネットから派遣される専門家チームの指示に従い、作業にあたっていただきます。
 
 協力いただける方は末尾の申込書に必要事項をご記入の上、事務局までご連絡ください。申込者が多数の場合には先着順となりますのでご了解ください。なお、遠方からご参加される場合には、宿泊などはご自身でご手配ください。また交通費・宿泊費は、参加者負担となります。
 
 (注意事項)
  1.汚れてもよい服装でおいでください。
  2.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
  3.昼食と飲み物は持参して下さい。
 
 ----------------------------------
氏名:
住所:
電話番号:
メールアドレス: 
所属:
参加希望日(○を付けてください)
25日(月):
26日(火):
27日(水):
------------------------------------



108号
(2011年4月19日)

東日本大震災・位牌堂の復旧活動

                        宮城資料ネット理事 柳谷(菊池)慶子
 
 4月17日(日)、県北にある寺院の位牌堂の復旧作業を行いました。本堂奥にある位牌堂には三段の棚上に江戸時代の歴代当主とその家族の位牌が厨子に納められて安置され、また開山以来代々の住職の位牌、大般若経を納めた経箱、仏具なども置かれていました。位牌・厨子は大きいもので1m近くあるものから、30cmほどのものまで、全部で50基ほど。これらの大半が3月11日の地震で転倒して棚から秩序なく落下し、さらに4月7日の余震で被害が大きくなりました。お寺だけでは元通りに戻すことが困難であるとして関係者から復旧活動の依頼があり、依頼者とご家族、和尚さんとともに終日作業にあたりました。
 
 転倒した厨子の確認
 
 まずは位牌堂の中のものすべてを本堂に運び出しました。厨子の多くは金具がはずれて扉がこわれ、中の位牌が外に飛び出していました。扉はばらけた状態のものもあり、大きさの違う扉などから合うものを見つけ出して、元のかたちを復元しました。位牌の多くは土台や上部が組み立て式であることがわかり、はずれて迷子になっている部分を探して慎重に合わせて復元を試みました。
 
 その後、厨子からはぐれた位牌を元の厨子に納めるべく、墨書の説明書きを確認し、大きさを見極めるなどして、大方は元の姿となるように整えました。しかし、厨子の多くは損傷しており、さらに位牌は美しい意匠部分が破損したものがあり、仏像や仏教美術の専門家に修復を委ねる必要があります。
 
 厨子を本堂に搬出する
 
厨子と位牌の照合作業 
  とりあえず厨子と位牌をほぼ元通りのかたちに復元できたことで、安全性の確保に考慮しながらこれらを位牌堂に戻し、午前10時半から始めた作業を午後5時過ぎに無事終了しました。
 
 作業の傍ら系図をもとに位牌に刻まれた法名の主を確認してみましたが、初代から13代まで、江戸時代の当主の位牌が揃っているだけでなく、妻室と実母、童子・童女の位牌も揃っており、さらに位牌および厨子にほどこされた意匠は夫婦や親子のつながりを示すものとしても興味深いものでした。女性たちの位牌の装飾には実家の家紋もみられます。明治初年に神式でつくられた位牌は「神儀」と刻印され、初代の父の位牌はこの時期に神儀としてつくられていたこともわかりました。このたびの活動は思いがけず位牌の歴史史料としての価値を考える機会となりました。それだけに震災で損傷したことは痛ましく、文化財の修復の手立てをお寺や個人で背負うだけでなく、支援の方法を考える必要性をあらためて思いました。
 お寺に向かう途中、県北地域の一部を車で見て回りましたが、旧家の門が大きく傾いていたり、土蔵の白壁・海鼠壁の剥落、壁板からの土壁の剥離などの損壊状況がみられ、シートをかけて凌いでいる様子が目立ちました。内陸部の街道沿いの古建築についてあらためて調査が必要であろうと思います。
 
 今回の活動には資料ネットから6名が参加しました。




107号(2011年4月18日)

ボランティアの募集です。

※募集は終了しました。多くの方にお申し込みいただきありがとうございます。

 4月22日(金)・23日(土)・24日(日)にボランティアを募集します。申込者が多数の場合には先着順となりますのでご了解ください。なお、遠方からご参加される場合には、宿泊などはご自身でご手配ください。また交通費・宿泊費は、参加者負担となります。

■22日(金) 仙台市太白区の旧家の土蔵から古美術品・民具などを搬出
 募集人員:10人程度
 集合時間:8時50分 出発:9時
 集合場所:仙台市博物館駐車場
      市博からは事務局の用意した車で行きます

(注意事項)
 大きく損壊した土蔵からのレスキューですので、下記の点にご留意ください。
  1.ご自身で傷害保険かボランティア保険等にご加入ください。
  2.ヘルメットをお持ちの方は持参してください。お持ちでない方は事務局で用意します。
  3.できるだけ安全靴を着用願います。
  4.汚れてもよい服装でおいでください。
  5.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
  6.昼食と飲み物は持参して下さい。
    
■23日(土)・24日(日) 資料ネット事務局での作業
 現在、事務局に解体家屋から回収した20枚程度のフスマが持ち込まれています。作業は、このフスマの解体と下張りはがしです。
 募集人員:10人程度
 時間:9時
 場所:東北大学川内南キャンパス 
    文系総合研究棟11階「防災科学研究拠点オフィス」
(マップ) http://www.tohoku.ac.jp/japanese/profile/about/10/about1003/index.html

(注意事項)
   1.汚れてもよい服装でおいでください。
   2.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
   3.昼食と飲み物は持参して下さい。

参加申込書
-----------------------------------
氏名
住所
電話番号
メールアドレス 
所属
参加希望日(○を付けてください)
22日(金)
23日(土)
24日(日)
------------------------------------



106号(2011年4月17日)

書画類の無償修復のお願い

 平川新です。本メールではとくに文化財の保存・修復分野の方々にお願いをさせていただきたいと思います。

 これまでの被災調査やレスキューのなかで、個人宅に所蔵された書画類が地震で落下して破れたり、津波による浸水で海水につかったりしたものが出てきております。これらのものは所蔵者の方々にとって大切なものですので、なんとか修復してあげられないだろうかと思っております。

 しかし修復に費用がかかるということですと、修復できますよとか、お預かりして直しますよ、と申し上げることができません。そこでお願いをしたいのですが、震災で被害をうけた書画類(軸物、額物等)を無償で修復してくださる方はいらっしゃらないでしょうか。

 保存・修復にかかわる個人の方や機関、および関係学会の方々には、ぜひこの問題をご検討いただき、無償による修復に取り組んでいただけるよう、切望しております。

 なお修復対象品は、所蔵者宅での保管が困難なのものについては宮城資料ネット事務局に搬入しておりますが、所蔵者宅に残してきたものもあります。修復をお引き受けいただける場合には、いずれにも対応いただけるようお願い申し上げます。

 ご協力いただける場合には、宮城資料ネット事務局へメールにてご連絡をいただければありがたく存じます。



105号(2011年4月16日)

東日本大震災・岩沼市での歴史資料保全活動

 宮城資料ネット事務局の蝦名裕一です。

 4月9日に宮城県沖を震源とするマグニチュード7.1の余震が発生するなど、未だ東日本各地では余震が相次いでいます。3月11日に発生した本震の被害をかろうじて免れた建造物が、余震をうけて倒壊するなど、新たな被害の情報も寄せられています。

 4月14日の被災地調査では、4月5日の岩沼方面への視察の際に、建造物に大きな被害が確認された旧家について、再度の訪問調査を実施しました。今回は、4月12日よりボランティアで駆けつけてくれた建築士の橋本浩司さん、中村彩さん、佐藤敏宏さんにも引き続き同行をいただきました。また、現在市史編さん事業を展開する岩沼市史編纂室の室員の方々も参加して調査を実施しました。

 はじめに訪れたのは、江戸時代に阿武隈川で廻船問屋や舟役人をされていたお宅です。今回の震災では、地震によって母屋をはじめ土蔵や庭園が大きな被害をうけていました。特に2階建ての土蔵では、側面を縦断する大きな亀裂、白壁・海鼠壁の激しい剥落、壁板からの土壁の剥離などの損壊状況がみられました。今後、風雨や湿気による土蔵内部への被害が拡大する危険性が予期される状態でした。
 
 剥離した壁土に土台を作る
所有者の方も、相次ぐ余震による被害の拡大を懸念し、早急な修復の方法を模索しておられました。

 橋本さんによる内部構造の調査では、土壁の崩落は激しいものの、内部構造はしっかりしており、倒壊の可能性は低く、修復も可能ということでした。ただし、壁板から剥離した壁土の部分について、厚く塗り重ねられた壁土と海鼠壁が、今後の余震によって自重により崩壊する危険性があるとのことでした。ここで、橋本さんのご提案により、剥離した壁土の下にブロックや石を積み上げて土台を作り、応急処置を施しました。また、中村さんによれば、倒壊した石塔の修復について、最近では無色で強力な接着剤があり、十分に修復は可能とのお話をいただきました。

 次に訪れたのは、近代の大地主であった岩沼市東部の旧家でした。今回の震災では、母屋前まで津波が迫ってきたとのことでした。


 こちらのお宅では、明治期から戦前にかけて建造された作業蔵を含めた複数の土蔵があり、特に通称「衣装蔵」と呼ばれている土蔵が、北側と東側の土蔵が全面にわたって崩落していました。この蔵は明治初期の建造とのことで、1階部分の壁が煉瓦で覆われたとても特徴的な作りの蔵でした。蔵の内部も拝見させていただきましたが、部材には立派な建材が使用されており、かつ内装も欄間に彫刻が施されるなど、地域の有力者であった当家の歴史が感じられるものでした。

 
 壁紙に裏張りされた近代文書
 蔵内部の床の間では、地震の影響で壁紙が捲れ上がっており、その裏には明治期の文書類が貼られていました。これらの近代文書については、土壁の崩落にともなって雨風にさらされる危険性があったため、これらの古文書を壁から剥がし、別置することにしました。

 蔵を調査した橋本さんは、土壁が大きく崩れたものの、建造当初の基礎構造はしっかりとしており、内部構造についてはほぼ問題が無いという事でした。加えて、この蔵は現在の日本の中でもなかなかお目にかかれるものではなく、県レベルの文化財に指定されてもおかしくはない、という見解を示されました。土壁が大きく崩落した北面の壁については、佐藤さんの手によって、蔵の内部や建材に浸水が無いようにブルーシートで覆う応急処置が施されました。
 
 ブルーシートで応急処置

 今回の調査において、橋本さん、中村さん、佐藤さんには、建築士としての専門的な調査のみならず、臨機応変な応急処置を施していただきました。余震が相次ぐ被災地では、被災した建造物に対し、こうした当面の応急処置を施すことが極めて重要な意味をもつものと言えるでしょう。また、土壁の崩落は一見すると被害のインパクトは強いが、昔の建造物の多くは基礎がしっかりしており、修復も十分に可能であるとのアドバイスには、震災による建造物の解体を憂える我々にとっても、大いに勇気づけられるものでした。これまでの我々の活動では、古文書の救出を中心としていましたが、こうした建築物への対応の重要性を認識するとともに、大変勉強になる調査でした。改めて今回遠方よりボランティアで参加していただいた橋本さん、中村さん、佐藤さんに深く感謝いたします。

 一方で、これらの歴史的建造物の震災被害からの修復、さらにはそれ以後の建造物の維持が、所有されている方々にとって大きな負担となっていることを痛感しました。土蔵が建築された時代と現在では社会状況も大きく異なり、部材も容易に手に入らず、これを担う職人の存在も僅かです。さらに、これを修復、維持する費用は個人レベルではまかないきれないぐらい高額なものとなっています。

 東日本大震災は、沿岸部のみならず内陸部の建造物も大きな被害をうけました。こうした中で、個人レベルでは維持しきれない存在となった古建築は、存続か否かの大きな局面に立たされています。これら歴史的建造物の維持は、歴史を共有する我々ひとりひとりをはじめとして、地域および国を含めた課題なのではないでしょうか。



104号(2011年4月15日)

歌津魚竜館展示資料レスキュー報告

          宮城資料ネット会員(東北大学埋蔵文化財調査室)藤沢 敦

 4月13日(水)に、南三陸町の歌津魚竜館の展示資料をレスキューする活動が行われました。東北大学総合学術博物館の活動として実施されましたが、資料ネットの会員である藤沢が所属する東北大学埋蔵文化財調査室に総合博から協力要請があり、藤沢も一緒に行ってきましたので、活動内容を報告いたします。今後の文化財レスキュー活動の参考にしていただければ幸いです。

 南三陸町の旧歌津町地区には、ウタツギョリュウ、クダノハマギョリュウ、ホソウラギョリュウという、時期の異なる魚竜化石が発見されており、これらは極めて貴重な自然史資料となっています。歌津魚竜館は、これら化石資料をはじめ、旧歌津町内の考古資料、民俗資料を展示する施設として、管の浜漁港の一角にあります。本館は1階が物産コーナーで、2階が展示室となっています。本館の裏側に、クダノハマギョリュウ化石が、発見された状態で、そのまま見学できる施設が併設されています。

 東北大学総合学術博物館の佐々木理先生(古生物学)たちが、3月中に状況調査に入られ、かなりの展示資料が残されていることが確認されていました。この貴重な資料をまもるため、できるだけ早急に動きたいとの総合博関係者の強い意向から、13日に総合学術博物館の活動としてレスキュー活動が行われました。考古資料も展示されていたことから、総合博から東北大学埋蔵文化財調査室に協力依頼がなされ、埋文調査室も協力して実施することとなりました。 総合学術博物館からは佐々木先生はじめ合計4名、埋蔵文化財調査室からは2名が参加しました。宮城県文化財保護課からは2名の担当者が参加し、当日の午前中に南三陸町教育委員会の担当者と必要な連絡調整を行って下さいました。また、文化庁の文化財等救援事業の現地本部の担当者の方も、県保護課の方に同行して来られました。午後1時に現地に集合し、地元で館の管理をされていた方に立ち会っていただき、ただちに活動を開始しました。

 魚竜館の建物は、津波で完全に水没したと思われ、隣接する施設の屋上には自家用車が何台も載っていました。建物自体は、窓などの開口部は完全に壊されていますが、柱・壁・床などの構造体は残っていました。2階の展示室は、大きな窓が片方の妻側とその脇にあるだけで、側面には片方の海側にごく小さな窓があるという、開口部が少ない構造でした。展示室内は完全に水没し、展示ケースも大きく移動し、ほとんど転倒していましたが、外に流れ出したものは少なかったと思われます。周辺の建物や施設は、全て海側に倒れており、引き波によって大きく破壊されたと思われます。展示室の妻側の窓は、引き波の方向とは異なっていたため、流出が少なかった可能性もあります。そのため、奇跡的にほとんどの展示資料が、室内に残されたものと推測されます。展示室内には、砂が数センチ堆積していた以外は、細かな漂流物は入り込んでいましたが、大きながれきは入っていませんでした。これも開口部が小さかったことが幸いした可能性があります。

 
   
 歌津魚竜館の現状(写真提供・藤沢敦)  2階展示室から見る入里前湾(同左)  2階展示室の様子(同左)

 極めて重い化石資料や、民俗資料として貴重な「カッコ船」など、機械を持ち込まないと運び出せないものを除き、運べる資料は展示パネル類も含めて搬出しました。展示資料には、テープラベルで整理番号が1点づつ付けられており、ほとんどの資料でこのテープラベルが残っています。これら資料のリストは南三陸町教育委員会から提供していただいており、番号をもとにリストと照合する作業を今後進めます。詳細な照合はこれからですが、考古資料に関しては、田茂川貝塚出土の縄文時代の石鏃が刺さった鯨骨、田束山経塚出土の三筋壺などの特に重要な資料は、残っていたことが確認できています。現地での作業は午後4時すぎに終了し、車3台で東北大学へ運搬しました。

 今回の地震津波被害に伴う文化財のレスキュー活動は、困難な活動になると実感しました。魚竜館に到着した最初の感想は、「これは怖いな」というものでした。海にすぐ面した場所ですので、大きな余震で津波が発生した場合、極めて危険な場所となります。実際に4月7日の余震では、宮城県沿岸に一時津波警報が発令されています。ラジオを大音量でつけ、地震・津波の情報があればすぐに退避できるように備えながらの活動となりました。津波が侵入した建物内部の破損状況もひどく、大きな余震があれば、様々なものが落ちてきかねない状況です。余震の回数も多く、その規模も大きい状態が続いています。その中での津波被害建物内での作業には、これまで以上に安全対策に留意する必要があると痛感しました。今回の魚竜館では、幸いなことに油の漂着は見られませんでした。しかし大きな港に隣接する地区などでは、津波とともに重油などの油が流れ込んでいる事例もあると推測されます。その場合には、被災文化財のレスキュー活動は、さらに困難な作業になると思われます。

 今回は、登米市東和地区から国道398号線(本吉街道)で水界峠を越えるルートで南三陸町に入りました。峠を越えて少し進んだ入谷地区の付近まで津波がおよんでおり、その先は延々とがれきが続きます。被害の広さは報道で知っているつもりでしたが、実際に目にすると、ただ言葉を失います。被害範囲が広すぎるため、主要道路以外でのがれきの撤去は、ほとんど進んでいないという印象を受けました。がれきの撤去だけでも、まだまだ時間がかかるのは間違いなく、復興までの道のりの長さが想像されます。被災文化財のレスキューは、当面は緊急の対応が続くと思います。その一方で、救援した文化財を再び地元に返すまでには、長い時間が必要となると思われます。そのことを見据えた、息の長い取り組みも必要であることを感じさせられる活動となりました。
 
 水損した帳簿資料への応急処置
(撮影・宮城資料ネット事務局)


(追記)
 14日に、埋蔵文化財調査室にて、考古資料についてリストとの照合を行いました。リストに掲載された考古資料144点、1点の欠損もなく救援できたことが確認されました。考古資料の大部分が、もっとも奥まった、窓のない部屋に展示されていたためと思われます。

(追記その2)
 被災した資料の中に、文政年間(1818-30)の、地元の漁業経営に関わる帳簿1点がありました。佐々木理さんからの相談を受けた事務局では、資料をお預かりして、早速応急処置に取りかかっています。(事務局・佐藤記)




103号(2011年4月15日)

石巻市・門脇地区での資料レスキューを実施

                           斎藤善之(宮城資料ネット副理事長)

 4月8日(金)、この度の震災後では資料ネットにとって事実上初めてとなる歴史資料のレスキュー活動を実施しました。この度の活動は、搬出を必要とする資料が車一台程度の限定的な分量となる見込みから、ネットの会員メンバーに事前に周知する形はとらず、事務局と一部会員とで実施いたしました。この活動は今後、より広範かつ大規模に実施されることになるレスキュー活動に先行することを意識しつつ実施されました。
 
 今回、レスキューの対象となったのは、先のネット・ニュース100号の被災地レポート「大津波に耐えた土蔵−石巻市街地・4月4日」において報告されていた石巻市・門脇地区のH家です。

 なお斎藤は、すでに十年前ほど前からH家には度々訪問し、その所蔵資料の一部については整理のうえで翻刻史料集を刊行しており(斎藤善之著『石巻市門脇・武山六右衛門家文書』石巻千石船の会編、2006年)、同家とその所蔵資料の概要についてはそちらをご参照いただければと思います。

 当日は、前夜(7日深夜)に発生した大規模な余震により、仙台東部道路と三陸自動車道が不通となり、各所で渋滞が発生したため、石巻到着は予定より2時間ほど遅れました。石巻市に入ると西部の蛇田地区から徐々に道路脇に浸水の跡が見られ始め、駅前周辺に至ると町並みの前面に積み上げられた震災ゴミの量の多さに驚かされました。12時頃、避難所になっている石巻市立図書館に到着し、そこで東北歴史博物館のメンバーと合流、そこからは石巻文化センターの佐々木淳氏の先導で門脇のH家に向かいました。門脇地区に踏み込むと、見渡すばかり一面の瓦礫の原、その中に点々と残る建物、とりわけ火災に焼けただれた門脇小学校、焼け跡と海泥の匂い、とにかくその凄まじさには言葉を失いました。

 門脇地区の日和山の麓にあるH家は、かつては2棟の住宅、2棟の土蔵、さらに醸造蔵だった大きな倉庫と板蔵が並ぶ広壮な屋敷が印象的でしたが、今回の津波によって土蔵1棟を除いて全てが倒壊あるいは流失し、あたりは一面瓦礫の原になってしまっていました。1棟だけ残った土蔵も、震災当初は、押し寄せた瓦礫の山に埋もれるようになっていたため、倒壊したものとみられましたが、瓦礫を取りのけるにつれて、意外にもほとんど当時のままの姿であることがわかりました。土蔵は外壁に損傷が見られ、内部も1階部分は天井付近まで浸水したものの、2階部分は窓から若干の海水が滲入しただけで床上までは海水が上がらなかったため、2階に置いてあった古文書や書籍、道具類はほとんど無事でした。これらの文書は一時は土蔵とともにすべて失われたものと思われただけに、その無事は奇蹟的なものと思われました。

     
 H家の土蔵(撮影・斎藤秀一/以下同)  土蔵に入る救援隊 被災を免れた史料

 レスキュー作業は、斎藤がかつて整理した古文書段ボール3箱と、郷土史家・橋本晶氏(故人)が蒐集した筆写資料ファイル段ボール3箱分ほどの保全を予定して実施しましたが、土蔵内を改めて精査してみると、そのほかにこれまで未調査であったH家の醸造関係史料(帳簿や書簡類)の存在が確認されたため、これらすべてを搬出することとしました。最終的に保全された資料の総量は段ボール60箱余にも及び、そのほかに古文書が下張りに貼り込まれた襖や額20点余もあわせて搬出しました。これら保全資料は東北歴史博物館に一時保管されることになり、同館のバンに積み込まれ移送されました。こうして約3時間にわたるレスキュー作業は終了しました。
     
 土蔵二階から史料を下ろす  土蔵から史料を搬出  史料の積み込み

 現地を退去するに際し、改めて土蔵を眺めました。かつては3棟並びで建っていた土蔵でしたが、隣の1棟は倒壊してその姿はなく、この土蔵だけがさほどの損傷もなく一面の瓦礫の中でポツンと立っている姿は、印象的としか言いようがありませんでした。未曾有の大震災のなかで同家と地域の歴史の資料を守り抜いた土蔵は、それ自体貴重な震災の記憶の象徴なのではないかと思われてなりませんでした。

 
 がれきの山にたたずむ土蔵

 今回の活動に参加したメンバーは、ネット会員の斎藤善之、千葉正樹、千葉真弓、斎藤秀一、東北歴史博物館から塩田達也、籠橋俊光、事務局から佐藤大介、天野真志、蝦名裕一の各氏(合計9人)でした。



102号(2011年4月13日)

東日本大震災 被災地より(その3)
仙台市

 宮城資料ネットの佐藤大介です。あの大地震発生から一ヶ月が経過しました。被災地では、いまでも多くの方が困難な生活を強いられています。事務局のある仙台市内は、ガソリンや生活物資はある程度確保できるようになってきましたが、都市ガスは復旧途上です。そのような中では、歴史資料保全活動を行うことができていること自体に感謝すべきだと考えます。

 このメールを書いているさなかにも、福島県浜通りで震度6弱を観測する余震が起こり、仙台の事務局も大きな揺れに見舞われました。

 今回のニュースは、4月6日に実施した仙台市での歴史資料保全活動についてです。

 
 ふすまの下張り文書を確認
 
 窓枠などが取り外された旅籠部分解体のつかの間 
往時の姿がよみがえった
 
 保全した下張り文書の解体作業

■震災で姿を消した近世松島の旅籠建築
 今回保全活動を行ったのは、仙台市宮城野区にある旧岩切郵便局の建物です。庁舎部分は1902年に建築され、宮城県の近代化遺産に指定されていました。さらに2年ほど前の調査で、日本三景の一つである松島の、近世から明治時代初めにかけて随一の旅館であった「扇屋」の建物が一部移築されていることがわかりました。

 この建物は、1960年代に郵便局としての役目を終えた後、集会場として利用されていました。しかし震災以前から老朽化が進み、上記調査の際の報道によれば、所有者の方は建て替えを検討されているとのことでした。結局、建物は今回の震災を契機に解体されることになりました。私たちが必要なものについては搬出するご許可をいただきましたので、メンバー4人で保全活動に向かいました。

 午前中に私たちが到着すると、すでに解体作業は始まっていました。ふすまの下張りに使われている古文書があるというお話があり、実際に文書があるのが確認されました。槌音が響く中、あわただしくふすま十数枚を搬出しました。このほか、床板に転用されていた庁舎部分の指図(図面)や、装飾品などを保全することができました。この間も、解体はあっけないほどの手際よさで進められていきました。

 仙台・宮城に暮らした人々の歴史的な営みを伝える建物が、この震災でまた一つ消えていきました。


■保全された下張り文書
 一方、今回は一部の部材と、膨大なふすまの下張り文書を保全することができました。下張り文書については、早速解体に取りかかっています。全容の解明には当分時間がかかりそうですが、1903年、すなわち今回解体された建物が竣工した翌年の岩切郵便局の業務日誌が使われていました。さらに、江戸時代の戸籍ともいえる宗門人別改帳や、幕末仙台藩の専売制に関係する史料も見られます。

 建物は姿を消しましたが、岩切郵便局、さらにはそれよりも古い時代に、岩切周辺を行き交った人々の営みを知る手がかりが、私たちの元に残されたのでした。



101号(2011年4月10日)

東日本大震災 被災地より(その2)
村田町・岩沼市・亘理町

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。前号に対して、多くの方々より励ましのメールをいただきました。心より御礼申し上げます。一昨日7日夜には大きな余震がありました。3.11震災で損傷した文化財関係のさらなる被害も憂慮されます。

 今回も前回に引き続き、被災地での活動報告です。4月5日に宮城県南部の村田町、岩沼市、亘理町を視察してきました。

■仏壇からの資料保全−村田町(1)

 宮城県村田町は、江戸時代後期に紅花の産地として栄えました。町の中心部には土蔵造りの建物が多く残され、村田商人の繁栄を今に伝えています。「小京都」とも称される町並みは観光にも活用され、各地から多くの人々が訪れています。

 村田町も含め、内陸部の被害状況については報道でもあまり取り上げられることがありませんが、今回の震災で被害が懸念された地域の一つでしたので、4日午前中に視察を行いました。

 同町のO家文書は、村田町屈指の紅花商人であり、明治以降は地域の名望家として活動した同家の活動を示す数千点の古文書です。現在の御当主は県外にお住まいですが、建物や伝来の史料を町おこしに活用したいとのご意向により、建物は町に寄贈され観光施設として活用されています。一方、所蔵の古文書については筆者も含む東北地区の研究者有志が1999年に結成した奥羽史料調査会が、2003年から6年間をかけて整理と撮影を行いました。

 今回の震災に際しては、建物、さらにはその内部や土蔵に保管されていた整理済み史料の状況が憂慮されました。地震直後に行政の文化財担当の方に確認を依頼したところ、災害対応の合間をぬって、O家も含む蔵の町並みの被害状況について、すぐに詳細な情報を提供してくださいました。O家についても建物が倒壊を免れたこと、整理済みの史料が無事であることを早い段階で知ることができました。

 その一方、御当主と連絡をとったところ、震災直前に村田を訪れた際、仏壇の中に史料があるのを見つけた、持ち出そうかどうか迷ったが、次の機会にと思っていたところ今回の地震が起こってしまった、すぐに駆けつけたいが、現在の交通状況ではそれもできない、というお話がありました。余震が心配される状況でもあったので、我々で史料を保全することを申し出たところ、ぜひお願いしたいということで、今回の視察にあわせて対応することにしました。

 対象の史料は、事前に指示のあった場所に収められていました。念のためさらに仏壇を確認したところ、引き出しが数か所あり、中には江戸時代の古文書が多数確認されました。これらの史料は所蔵者の了承を得て、一旦仙台の事務局に搬出することにしました。

 建築士をしている今回の活動支援者の方によれば、O家の主屋はケヤキ製の柱1本が損傷しており、余震などによる倒壊を防ぐための応急処置が必要な状態との事でした。土蔵などに保管されている整理済みの史料は、当日の人員の制約や保管場所の雨漏り被害が確認できなかったことから一旦現状のままにしてきましたが、一昨日の余震も踏まえ、折り返し保全のための対応を行う予定です。

 前日の石巻市雄勝町での経験を経た筆者にとって、何より意義深かったのは、新しい史料が見つかったことではありません。未曾有の災害を免れた史料を、自らの手で救出することができたということです。所蔵者と行政の協力を得た今回の視察と史料保全活動で、今後の活動へ向けた活力を得ることができたのでした。

■震災被害から見えた村田の家造り−村田町(2)

 O家も含め、村田町中心部の土蔵造りの家屋の大半は、今回の震災により、土壁の亀裂や崩落、屋根瓦の落下、建物のゆがみなど、見た目では「大きな損傷」を受けたように見えます。前述の通り、O家も応急処置の必要な箇所がありますが、行政サイドでも被害調査を行ったとのことで、対応する方向で検討するとのことでした。

 一方で、支援者の方によれば、詳細な調査を行う必要があるが、O家も含め村田の土蔵造りの建物は、強固に固められた基礎、現在では入手がほぼ不可能であろう堅牢なケヤキの巨木を用いた柱などのおかげで、多くが致命的な損傷を免れたのではないか、とのことです。土壁の崩落は、以前から老朽化していた箇所が今回の震災で損傷したものであり、建物の構造自体に問題があるというわけではなさそうです。

 災害をきっかけに、先人の知恵と経験が浮き彫りになったということについては、メールニュース98号で奥州浜街道の事例を紹介しました。今回の事例についても、建主である村田の商人や、普請にあたった職人たちがどのような考えで家造りをしたかという事を、考えてみるきっかけとなりそうです。

 その一方、今回の損傷が一見して「目立つ」ものであることも確かです。前述した破損の特性は、所蔵者の方々も含め、現代に暮らす私たちの多くは認識していないため、実際には修覆は不可能だと判断してしまう場合が多いと思われます。応急診断による「危険」の赤紙は、伝統建築の解体に拍車をかけることになります。この問題についてはメールニュース99号で指摘しておりましたが、歴史資料を主な保全対象として活動してきた私たちがどのように関わり合っていくかは、まだ結論が出せていません。とはいえ、事態の深刻さをふまえ、ひとまずは応急修覆の方法などについて、専門家と相談しながら検討してきたいと考えております。

■先祖伝来の「宝」を維持する難しさ−岩沼市

 4日午後は岩沼市の視察を行いました。岩沼市では事前に事務局で所在を確認していた6軒の旧家について、地元の文化財保護委員の方にご案内いただいて訪問しました。各家の皆様には、災害下の突然の訪問にも関わらず快く対応していただきました。

 訪問した各家には、それぞれ土蔵や伝統技術で建てられた主屋などが残されていましたが、村田町と同じく土壁の崩落や損傷が目立ちました。中にはすでに応急危険度判定がなされ、「赤紙」(危険診断)が貼られたものもありました。とはいえ、こちらも致命的な損傷を受けた事例は少ないように見えます。所蔵者のお一人は、土壁は崩れたが、そのおかげで中の柱が健全なことがわかったから、取り壊さずに修理します、ということでした。

 一方で、自力での修覆が難しいこともまた確かです。阿武隈川沿いの旧家には、江戸時代の建物や蔵が残されています。家の方のお話では、これらは今回の震災以前から痛みが目立つようになっていた、先祖から伝わってきた建物だから大事にしたいという気持ちはあるが、これ以上個人で維持していくのは限界に近いというお話でした。

 仙台東部道路沿いにある別のお宅では、津波が庭にまで迫っていましたが、かつて地元特産品の集荷などにも使われたという倉庫や主屋などは大きな破損を免れました。しかし、地震で築100年以上の土蔵の壁が全面にわたり崩れてしまい、柱がむき出しになっていました。御当主によれば、修覆にお金がかかるだろうから解体せざるを得ない、とのお話でした。土蔵には多くの古文書などが保管されているとお話だったので、解体の際には我々に史料保全を行わせてほしい旨をお願いしてきました。

■津波が襲った阿武隈川河口の町−亘理町荒浜

 岩沼市とは阿武隈川を挟んだ南岸に位置する亘理町は、今回の大地震による津波被害が甚大だった地域です。今回の視察では、阿武隈川河口の荒浜地区を訪れました。

 ここには、数年前に古文書の調査におたずねしたM家があります。阿武隈川舟運の差配役を務めた同家の古文書は、一部が町の資料館に寄託されていますが、ご自宅には江戸時代後期から明治時代初めの舟運に関わる史料が残されていました。元の母屋を解体する際、処分するには惜しいのでとっておかれたというふすまの下張りです。私にとっては、下張り文書の解体と整理を初めて経験した調査であり、史料の中には故郷の福島県北地方のなじみ深い地名がたくさん出てくるという点でも、思い出にのこる活動でした。

 荒浜地区も、巨大津波の爪痕が各地で残されていました。前日の北上川と同様、高さ6〜7メートルはある阿武隈川の土手は津波で大きくえぐり取られていました。M家の主屋はほぼ原型のままで残されていましたが、一階全体が浸水した跡が残っていました。家にはどなたもいらっしゃいませんでした。史料の所在は定かではありません。

 辺りのいくつかの家屋には、その中で犠牲となった方々を収容した目印である、白いテープで作った「×」印が貼られていました。私たち一行に声をかけてくれた地元の方のお話によれば、高齢者の方を中心に避難が遅れた方が多かったとのことです。M家の御当主は、津波の被災は免れ、避難所で元気にしていたが、その後疎開された先で亡くなられたらしい、との事でした。

 私たちは集落の一角に、用意していた献花を捧げ、帰路につきました。資料レスキューの成果と、所蔵者の方との悲しいお別れという、二つの経験をした視察となりました。



100号(2011年4月6日)

東日本大震災 被災地より(その1)
石巻市街地・雄勝町・北上町

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。本メールニュースも100号となりました。90号を過ぎたあたりから、記念の100号をどのような内容にしようか事務局で話し合っていました。その100号は、3月11日に発生した大地震における歴史資料レスキューの被災地レポートとなりました。支援者の方に車を御提供いただき、4月4日に石巻市街地、同市雄勝町、同市北上町の三ヶ所を、今回初めての現地視察として事務局4名で訪れました。

■大津波に耐えた土蔵−石巻市街地・4月4日

 4月4日は、未曾有の津波被害を受けた地域の一つである、宮城県石巻市の視察でした。

 三陸自動車道を東に向かい、矢本パーキングエリアを過ぎると、徐々に水田への浸水や、津波で流されたがれきや車が見え始めました。石巻河北インターチェンジを降りると、道路には津波による砂の跡が残されています。市街中心部に近づくにつれ、道路の両側には津波を受け廃棄される生活道具が、うずたかく積み上げられるようになります。石巻市中心部は、つぶれた家屋や自動車、津波でえぐり取られたアスファルト舗装、なぎ倒された電柱や信号機で、車のすれ違いが難しくなる状況でした。しかし、市街地はまだ建物の形は残っています。石巻市街地のシンボルである日和山から海岸線までの一体は、文字通りがれきの山になってしまっていました。
     
 (写真左)がれきの山となった海岸部   (中)砂地に残された「SOS」  (右)津波に耐えた土蔵 
 
 石巻市街地では、地元の郷土史サークルの方から救援要請のあったH家を訪問しました。同家の主屋は大津波で押しつぶされてしまいましたが、数年前に耐震補強をされたという2階建ての土蔵は、押し流された数軒の家屋を食い止め、奇跡的に倒壊を免れていました。1階は浸水しましたが、2階部分は浸水もなく、古文書などはほとんど無傷の状態で保管されていました。これらの資料はレスキューを行い、東北歴史博物館に一時保管する方向で対応することとなりました。

■消えた街・消滅した資料−雄勝町・北上町

 4日午後には、市街地から北上して石巻市雄勝町と北上町に向かいました。両町では、合併前の北上町史編さん事業などで保全した数家の古文書資料の現状確認を行うことにしていました。

 雄勝町へは、まず石巻市河北町を経由し、北上川(追波川)の堤防上に作られた道路を通って新北上大橋まで進んでいきます。堤防に上がってしばらく進むと、ヨシ原が津波でなぎ倒され、押し流された船が見え始めます。松の木の大木は、河口にあった防砂林のものでしょか。その後、新北上大橋に近づくと風景は一変していました。津波が南岸の堤防を完全に破壊し、その側の住宅や建造物は倒壊していました。水面すれすれに設けられた仮設道路は、満潮の時間帯が近かったこともあって、路肩が水に浸っています。さらに、新北上大橋は北側4分の1程が押し流され、数百メートル上流にトラスの残骸が落ちていました。

 雄勝町市街地の被害はさらに壊滅的なものでした。学校や公民館など数棟を除き、建造物は跡形もなく消えていました。3階建ての観光施設だった建物の上に観光バスが乗り上げている、などという光景を目にするとは、全く想像していませんでした。時折行き交う緊急車両のほかは人影もほとんどありませんでした。

 同町のN家は、戦国末期以来の地域有力者で、2000年から5年間の北上町史編さん事業で1万2千点あまりの古文書を整理・撮影しました。津波でえぐられた波打ち際の道路を進んでたどり着いた、そのN家の江戸時代に立てられた主屋と土蔵は、礎石を残して跡形もなく消滅していました。そのような状況であろうことは、事前の航空写真などの情報で把握してはいました。一方、先ほどのH家の状況もあり、わずかな可能性に期待してもいました。しかし、現実に広がる光景はそれを容赦なく打ち砕くものでした。それでも、なんとか一点でも資料を見つけたいと、がれきの中を必死に探し続けたのでした。 

   
 消滅したN家の土蔵跡  被災前の土蔵(07年4月)
 新北上大橋が落橋したため、北上川北岸の北上町へは一旦上流まで戻って川を渡ります。北上町も、橋より東側の地域は壊滅的な被害を受けていました。同町のK家の資料は、同町総合支所の方からの紹介で2年前に保全活動を行いましたが、津波で失われました。時間の関係ですべては今回は確認できませんでしたが、北上町史編さん事業の際に整理・撮影した他の古文書も、厳しい状況にあることは確実です。さらに、総合支所庁舎で保存されていた町史編さん時に収集した史料のデータベースを保管したサーバも、10メートルを超える津波に襲われた庁舎ごと失われてしまったとのことです。

 私事を記すことをお許しいただきたいのですが、私が宮城県で初めて本格的な自治体史編さん事業に参加したのが北上町史でした。事業では、今回訪れた北上町と雄勝町の所蔵者方で、所蔵者や地元の方々と協同でデジタル技術を活用した史料保全活動が行われ、調査成果の還元を常に行いながら編さんが進められました。ここで培われた保全活動のスタイルは、2003年に発足した宮城資料ネットによる「宮城方式」の原点の一つでもあります。その地域の史料のほとんどが消滅したという事実は、私自身にとっては人生の一部をもぎ取られてしまったのと同じです。それだけではなく、資料ネットにとっても原点となった地域の歴史資料の多くが、この大震災で永遠に失われてしまったのでした。 

■関係者の無事・残されたデジタルデータ

 今回訪れた各地では、幸いなことに所蔵者や関係者の方々は全員御無事でした。所蔵者の方々は、全員が被災後一ヶ月近くたつ現在でも避難生活をされています。困難な状況にあることは想像に難くありませんが、訪問した私たちを快く迎えてくださり、再開を喜び合うことができました。

 また、雄勝町と北上町の所蔵者の方々からは、震災前に私たちがデジタル撮影を行っていたことに対する感謝のお言葉もいただきました。「史料は無くなってしまったが、その前にきちんと撮影しておいてもらってよかった」、「落ち着いたら、先生たちが保管しているデータをぜひ提供してほしい」。

 私たちはこの8年間、行政や市民の方々と協同で、全力で活動にとりくんできました。それでも今回の大震災までに、今回被災地となった地域のすべてをカバーすることはできませんでした。しかし、今回のケースでは、仙台にあるデータは震災を免れました。そのデータは、やがては所蔵者や地域へとお返しすることになります。なぜ「災害「前」の保全活動」を行わなければならかったのか、これからの活動にどのような意義があるのか、悲しい経験を通じて、私たちも改めて認識することになりました。

 震災後、いまこの瞬間も刻一刻と史料は失われつつあります。そのような史料を一点でも保全し、記録化してゆく。私たちは今回の経験を乗り越え、着実に活動を進めていこうと考えております。引き続きの御支援と御協力を、心よりお願い申し上げます。

 2011年4月   5月へ 114号 113号 112号 111号 110号 109号 108号 107号
                 106号 105号 104号 103号 102号 101号 100号 3月へ
HOME