2011年5月 2011年4月 2011年3月
 2010年  2009年  2008年  2007年  2006年  2005年  2004年  2003年 HOME
 2011年5月 129号 128号 127号 126号  125号 124号 123号    
               122号 121号 120号 119号 118号 117号 116号 115号



129号(2011年6月2日)

東日本大震災
伝統と学びの記録を保全する−宮城県農業高校

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。5月29日と30日の両日、宮城県名取市にある宮城県農業高等学校同窓会所蔵の蔵書資料レスキューを実施しました。同校および同窓会ご協力と、神戸の歴史資料ネットワーク(史料ネット)および山形資料ネットからの応援を得ての活動となりました。わせて、今回は文化財救援委員会の現地対策本部の尽力で、今回のレスキュー関係者の方々にこの場を借りてあつく御礼申し上げます。

 今回の活動は4月25日から27日まで実施した活動に続く第二次のレスキューとなります。前回の活動についてはネットニュース115号をごらんください。

■5月29日 宮城県農業高校

 
 資料のクリーニング作業(28日)
 
 資料の水洗い(30日)
 宮城県農業高校は、校舎一階まで津波が浸水しました。前回の活動に比べるとがれきの撤去が進んでいましたが、その分建物のあった場所の基礎があらわになったことで、改めて被害の甚大さを認識させられました。

 今回レスキュー対象となったのは、前回の活動中に、保管されていた百周年記念会館一階の倉庫内で確認された水損した蔵書と、戦前のものも含む写真およびアルバムです。泥に埋もれていた資料は水濡れがひどく、一旦時間をおいて陰干ししていました。これらの資料について、まずはクリーニングと梱包作業を行うこととなりました。

 クリーニングは、刷毛や竹べらを用いて、資料に付着した泥を落としていきます。この時、カビの生えているものはエタノールで拭き取っていきます。その後、処理方法の異なる和綴じと洋書を分類した上で箱詰めをしました。一方、写真資料はアルバムや写真についた汚れを丁寧に落としたり、袋に入ったネガフィルムの取り出しを行いました。午後1時から3時間ほどの作業で全体の3分の2ほどの処理を終え、段ボール20箱ほどになった資料を、現地から一旦仙台市博物館に搬入しました。


■5月30日 仙台市向田資料収蔵庫

 台風2号の接近により5月としては記録的な豪雨となった30日は、関係機関のご尽力により作業場所として提供された仙台市向田資料収蔵庫での作業となりました。前日に引き続き、日中いっぱいかけて資料の泥落としを行うとともに、一部の和綴じ本は水洗いと吸水乾燥も実施しました。ネガフィルムについてはぬるま湯でつけ置き洗いし、その後自然乾燥を行いました。
 
 冷凍倉庫への搬入(30日)
 
写真を乾かす(30日)

 その後、凍結乾燥処理を行う史料は、冷凍処理の協力企業である岩沼市のニチレイロジスティクス東北・仙台南物流センターへ搬入しました。仙台空港にほど近い同社の回りは津波で折れ曲がったフェンスやがれきも多く、地震で砕けた路面は冠水し、通行もままならない箇所がありました。空港南の倉庫群は、一階部分のシャッターが津波で破損したまま、それでも物流回復のため営業が再開されていました。ここに資料を搬入し、今回水損資料の処理を行う奈良文化財研究所の協力企業である奈良市場冷蔵株式会社(大和郡山市)に向け発送されることになります。全国から参加したボランティアと、救援委員会および協力企業の連携により、今回のレスキューを効率よく進めることができました。

 なお凍結乾燥処理のできない写真資料は、神戸の史料ネットメンバー2名が全体作業終了後、仙台の事務室で午後10時近くまで応急処置の作業を行いました。

 今回の活動で、蔵書及び関係資料の被災地での応急処置及び搬出は一段落することとなりました。今後は奈良文化財研究所や、前回の搬入先である東北芸術工科大学での乾燥処理を行ったのち、移転予定の新校舎で保管されることになります。

 レスキュー対象となった和綴じ本には、農業高校の前身である「宮城農事講習所」(明治14・1881年設立)の蔵書印が押されたものもあり、現在の仙台市太白区根岸にあった旧仙台藩茶園の敷地近くに設立された同校の伝統を示す資料だといえます。写真には戦前以来の学校行事や同窓会の活動が記録されていました。今回の資料レスキューが、同校の伝統の継承の一助ともなれば幸いであると感じた次第です。




128号(2011年5月28日)

東日本大震災
残され、伝えられる開発の証−仙台市


 事務局の佐藤大介です。今回は仙台市における保全活動の報告です。

 仙台市の沿岸部は、本ニュース121号の栗原伸一郎さんから報告があったように、今回の津波で大きな被害を受けました。宮城資料ネットでも博物館や市史編さん室と連携して仙台市域での活動に取り組んでいますが、その中で5月10日、同地域にお住まいの方から海水で濡れた古文書の応急処置について相談をいただきました。ご自宅をボランティアに依頼して後片付けをしていた際、古文書の入った文箱が見つかったということでした。私たちの活動については知り合いの方から教えていただいたという事で、その日の夜に史料を直接事務局に持ってきていただきました。
 
事務局に持ち込まれた古文書
 
 エタノール噴霧後の吸水作業

 黒塗りの文箱は、ちょうどA4版のノートが収まるほどの大きさで、中には30点ほどの古文書や巻物がぎっしりと収められていました。ご先祖は伊達政宗に武芸の指南役として召し抱えられ、現在お住まいの地を与えられたということでしたが、まさしくそのことを証明する内容の史料でした。幸い、水濡れの程度は比較的軽かったので、事務局でエタノールを噴霧した上で乾燥することにしました。

 一方、古いものを置いていた納屋は津波で流されてしまったが、いくつか残ったものはご自宅に置いてある、実際に被災した地域の様子を現場で説明してもいいですよ、というお話がありましたので、大変な状況とは知りつつも、お言葉に甘えて5月16日に現地を訪問させていただくことにしました。当日は仙台市歴史民俗資料館の畑井洋樹学芸員と事務局3名でおうかがいしました。

 海沿いの集落に向かう途中は、これまで訪れた被災地と同様、水田の中にまだ多くのがれきや乗用車などが放置されたままになっていました。江戸時代初め以来という鈎曲の道筋が残されている集落の家屋はもとの形を留めているものも多く、海岸沿いの防潮林が津波の威力をある程度押さえたという報告を裏付けるものかと思われました。それでも、大半は一階部分が押し流されたり、窓ガラスや壁に浸水した跡が残されており、犠牲者を収容したことを示す白い「×」印も目につきました。

 御当主によれば、文箱は普段床の間に置いてあったが、津波で床が抜けてそのまま下に落ちていた、家が壊れてしまうような津波だったのによく流されずに残っていたと思う、とのことでした。今回の史料も奇跡的に残されたといえます。また御当主のお母様からは、この辺りに大きな津波が来たという話は全く聞いたことがない、去年のチリ地震のときも警報は出たが津波が来なかったので今回も大丈夫だと思っていた、孫と一緒に避難したが一人だったらどうなったか、というお話をおうかがいしました。ご自宅には古い書類などは確認できませんでしたが、災害当時の状況や今後の復興に向けた思いなど、貴重なお話をおうかがいすることができました。

 今後は移転などにより、同家が暮らした江戸時代初期以来の集落が消滅する可能性があるということです。しかしその場合でも、これまでの集落の歴史をきちんと調べ、新しいまち作りはその成果をきちんと踏まえたものとしたい、という御当主のご意向をおうかがいしました。

 今回保全した古文書には、江戸時代初めからの家の由緒に加え、地域づくりのよりどころという新たな意味が加わることになりました。お預かりした史料は全点の撮影と中性紙封筒への袋詰めを終えています。今回保全した史料をどのように活用してゆくか、集落の歴史調査という事も含め、地域の方や関係機関とともに考えていきたいと思います。



127号(2011年5月26日)

石巻文化センターにおける文化財レスキュー


           東北大学大学院生 関博充

 5月15日、現地は浜風が強かったが、天候に恵まれた。この日は、宮城資料ネットから総勢21名がボランティアに参加した。以下に、その活動概要を報告する。

 石巻文化センターは、石巻港に注ぐ旧北上川の河口近くにあり、海は目と鼻の先である。建物の周りには、震災から2ヶ月経った今でも、木材や建材、自家用車からなる瓦礫が散在していた。押し寄せた津波は、センター1階フロアの窓や扉を破壊し、室内の什器や蔵書・資料を移動させだけでなく、土砂や材木、パルプ、そして軽自動車までをも館内に流し込んでいた。ほとんど手つかずの状態に見える館内のガラス窓や壁に残る痕跡から3m近く浸水したことが伺えた。震災時、館内にいた職員の方の話によれば、水が引くまで4日近くかかったそうだ。現在でもまだ電気、水などのライフラインは復旧していない。その中でのレスキューとなった。
 
 館内に入り込んだがれきの撤去
 
 泥に浸かった資料の救出

 文化財レスキューの第一の目的は、被災した文化財を、保存環境やセキュリティー上、安全な場所に移動させることである。それにはまず館内外の瓦礫や土砂を除去し、移動経路を確保しつつ、資料の存在とその被災状況を把握することが最優先となる。
       
 今回の作業も、屋内に堆積した土砂の除去から始まった。収蔵庫前には土砂や瓦礫が10センチ近く堆積し、扉の開閉を困難にしていた。津波が残す堆積物は、海から離れるに従い土やゴミを含み、ヘドロ化するものであるが、ここは海に近接していることが幸いし、ほとんどが海砂であった。暗闇での作業ではあったが、おおよそ乾燥しており、作業はしやすい。1階ロビーに堆積した土砂も除去し、その中から、事務室や書庫から流れ出した資料や図書を救出し、2階へと避難させた。

 午後は、収蔵庫内で海水、土砂、パルプにまみれた民俗資料を、一時的に屋外に運び出し、乾燥させる作業となった。塩水を含んだパルプや砂が多くの資料に付着しており、特に金属製品は、付着物の周囲で錆化が進行していた。いち早く純水で洗浄し、塩分を除去する必要があるが、現状では洗浄用の水も、洗浄後の保管場所も確保が難しい。最終的には、それらが可能な場所へ移動させ処理しなければならないが、今回は、資料全ての救出には至らなかったので、再度施設内で保管することになった。まだまだ資料は残っており、運び出しにも、その後の処理にも人手と時間を要することは間違いない。今後、継続的にボランティア活動を行っていく必要性を強く感じながら、この日の作業は終了した。


 作業終了後、津波に耐えた本間家の土蔵(ネット・ニュース118号参照のこと)を見学できた。壁や屋根に残る傷跡は痛々しいが、高く積み上げられた瓦礫の中に、どっしりと構える土蔵は、とても頼もしく見えた。石巻復興のシンボルとして保存できることを切望する。

(追記)
 石巻文化センターの津波被災資料は、その後宮城県内各地の博物館に一時搬出され、専門家による応急処置が進められています。(事務局・佐藤大介)

*参考 2011年5月24日河北新報朝刊 「石巻の宝を守れ 全国から学芸員、奮闘「必ず残す」」
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/05/20110524t13011.htm  *リンク切れ




126号(2011年5月25日)

ボランティア急募
宮城県農業高等学校蔵書レスキュー

※募集は終了しました。

今回の津波で被災した宮城県農業高等学校蔵書のレスキューを、5月29日日曜日、5月30日月曜日の両日実施いたします。つきましては、ボランティアを15名程度募集いたします。直前の募集となりますが、多くの方のご参加をよろしくお願い申し上げます。


■作業の内容
・宮城県農業高等学校水損資料の応急処置

■募集要項
◇募集人員:15人程度
◇集合時間・場所:
 ・5月29日 午前11時 仙台市博物館駐車場
 ・5月30日 午前9時 同上

*公共交通機関 仙台市営バス 仙台駅前9番乗り場
・「宮教大・青葉台行」ないし「青葉通経由動物公園循環」、「博物館国際センター前」下車 徒歩3分

http://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/guide/access/index.html


*作業場所までは事務局が用意する車両で移動します。

◇スケジュール
<5月29日>
・12時半頃、宮城県農業高校(宮城県名取市下増田字広浦20-1)到着
・13時半〜15時半、宮城県農業高校同窓会館1階部分から汚損資料を搬出
・16時 仙台市博物館(仙台市青葉区川内26番地)へ搬入。トリアージ。17時半
作業終了後解散

<5月30日>
・9時 仙台市博物館に集合。向田文化財整理収蔵室(仙台市宮城野区高砂二丁
目22)へ搬出準備
・10時 向田文化財整理収蔵室到着。資料洗浄、資料梱包
・16時 株式会社ニチレイ・ロジスティクス東北仙台南物流センター(宮城県岩
沼市空港南4丁目1−2)に搬入。現地で解散


<注意事項>
 初日に活動する宮城県農業高等学校は津波で1階部分が浸水しました。活動場所は泥が積もるなど厳しい環境にありますので、下記の点にご留意ください。

 1.ご自身で傷害保険かボランティア保険等にご加入ください。
 2.ヘルメットをお持ちの方は持参してください。お持ちでない方は事務局で用意します。
 3.できるだけ安全靴を着用願います(特に29日参加の方)。
 4.汚れてもよい服装でおいでください。
 5.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
 6.昼食と飲み物は持参して下さい。
 7. 宿泊先については各自で確保してください(両日参加される方)。

■締切 5月27日金曜日 午後5時

■申込書
-----------------------------------
氏名:
所属:
メールアドレス:
住所:
電話番号:
参加希望日(○を付けてください)
 ・29日
 ・30日
------------------------------------
*上記の情報は、今回のレスキューおよびメールニュース配信に使用します。




125号(2011年5月24日)

震災の傷跡から語りかける、新たな歴史資料群
 ―栗原市・大崎市の被害調査から―

 宮城資料ネット事務局の蝦名です。

 震災から2ヶ月が過ぎ、梅雨の季節が近づいてきました。事務局には毎日のように資料レスキューの要請が寄せられ、私達も毎日のように県内を飛び回っています。同時に、活動にあたっては多くの方々から、カンパやボランティア参加によるご協力とご声援をいただいています。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 5月11日は栗原市と大崎市方面の被災状況を調査に伺いました。ふたつの市がある宮城県北部は、今回の東日本大震災で最も揺れの大きい震度7を記録した地域です。各地で聞いた話では、3月11日の本震のみならず、4月7日に発生した震度6強を観測する余震でも大きな被害を受けたとのことです。
 
 襖の下張りから現れた
戊辰戦争期の古文書

 最初に訪れた栗原市O家は、地震で母屋が甚大な被害をうけていました。応急危険度判定では「危険」と診断され、地盤の沈下により家屋の基礎が傾き、家屋内も土壁が崩落するなど深刻な被害がみられました。その中で、破れた襖の裏に古文書が確認され、戊辰戦争時の軍費調達に関わる文書が確認されました。母屋裏には、駒形根神社から分祀された屋敷神の社と土蔵がありました。とりわけ土蔵は随所に素晴らしい鏝絵(こて・え)の装飾がされた壮麗なものでしたが、側面の土壁が全面的に崩落する被害をうけていました。ここでは明治から昭和にかけて、同家を中心におこなわれていた講に関する文書群や、和本類が保管されていました。

 次に訪れたのは、大崎市のM家でした。今回の震災では、土蔵の土壁がいたる所で崩落しており、文書蔵2階は、震災の影響で収蔵物が崩落していましたが、随所に大正期から昭和初期にかけての経営に関わる帳簿や書類が確認されました。その量が膨大であるため、今回は資料の被災状況を確認するのみでしたが、今後資料を分析することで、同家の経営の歴史が解明されるものと思われます。
 
 襖右上部からのぞく古文書

 最後に訪れたのは、大崎市古川地区のS家でした。近代に入ってからの分家なので歴史的な資料はないだろう、というお話でした。しかし、被災状況を調査させていただく中で、蔵の中に保管されていた襖の破れ目から、下張りに近世の古文書が確認されました。ご当主のお話では、その襖は本家から譲り受けたものであるということでした。文書という形ではなく、襖という形で歴史資料が移動する。この事実に、私自身少なからぬ驚きを覚えました。

 東日本大震災が地域に甚大な被害を与えたことは言うまでもありません。一方で、震災によって砕かれた襖から新たな歴史資料群が発見されるように、その傷跡の中にも地域再生の芽が隠されています。現在、震災被害からの復旧活動が一段落した地域では、震災によって被害をうけた歴史的な建造物の解体や撤去が急速に進んでいます。復興に向けた歩みである以上、それを止める事は困難です。我々が出来ることは、限られた時間の中で、ひとつでも多くの資料をレスキューすること、それが将来的な地域再生の一助になると考えています。



124号(2011年5月19日)

東日本大震災
流れ着いた古文書箱−宮城県女川町

 事務局の佐藤大介です。5月12日木曜日、事務局では女川町教育委員会文化財保護係の依頼を受け、今回の大津波で水損した古文書史料の引き取りにうかがいました。

 対象となった古文書は、町の文化財に指定されていた江戸時代の古文書の一部です。3月11日の大津波で、所蔵者のご自宅は、古文書を収めていた土蔵も含めすべての施設が跡形もなく消滅してしまいました。集落全体も壊滅しました(航空写真による)。幸い所蔵者の方は無事で、現在は町外に避難されています。

 この古文書が見つかった経緯は、担当者の方によれば次の通りです。古文書が町役場に届けられたのは、津波から40日あまりが経過した4月28日のことです。届けてくださったのは、所蔵者宅と入り江を挟んで対岸にある集落の方です。この地区も津波で壊滅しました。住民の方々は高台にある避難所から日々集落に降りて、自宅のあった場所などで物品を捜索されていました。その中で、あるお宅の敷地に流れ着いていた茶箱一箱から古文書が見つかったのです。貴重なものだと判断されたその家の方は、偶然集落を通りかかった運送業者に、茶箱を町教育委員会に届けるよう託したそうです。女川町中心部の町役場も津波で壊滅したため、古文書は役場の避難先となっている女川町総合運動場に届けられたのでした。

 古文書を託された町では応急処置を行っていましたが、避難所対応が最優先されるという事情もあり、石巻古文書の会の庄司惠一さんを通じて5月7日に本会にレスキュー要請がありました。

 私事ながら、引き取り当日の木曜日は大学の非常勤講師一コマを受け持っているため、当日明け方まで講義の準備を行い、午前中の講義を済ませた後、東京から駆けつけた本会会員の高橋美貴さんとともに女川町に急行しました。
 
 がれきが残ったままの女川町中心部

 女川町に向かう途中の石巻市湊地区や渡波地区は、がれき撤去もまだ余り進んでいません。女川町中心部は、報道でもたびたび紹介されたように鉄筋コンクリートのビルが根こそぎ倒れるなど壊滅的な状況です。高台にある町総合運動場には大勢の避難者がいらっしゃいました。

 避難所対応などの合間に私たちを迎えてくださった担当者の方は、一部とはいえ古文書が見つかってよかったと、涙ぐみながら私たちに話してくれました。茶箱の中の封筒は、津波から2ヶ月以上立ってもまだ濡れたままで、一部にカビが生えかけていました。所蔵者の方からは町役場を通じて私たちが保全を行うことに了承をいただいているとのことでしたので、私たちは茶箱をお預かりし、すぐに仙台に引き返しました。これらの資料は、ネットニュース120号・121号で紹介した大船渡市S家資料や、5月10日に事務局に持ち込まれた石巻市内の水損古文書とともに冷凍処理を行うため、14日に今回の津波による水損資料の処理を引き受けていただいている奈良文化財研究所の協力企業である奈良市場冷蔵株式会社に向け発送されました。所蔵者の方とは後日連絡が取れ、古文書のことはあきらめていたが少しでも残ってよかった、応急処置をしてくれてありがたいとのお話がありました。
   
 古文書が入っていた茶箱(左)とふたを開けたところ(右)

 古文書が入っていた茶箱はどこにでもあるもので、ふたが密閉されていた様子もありません。さらに搬出しようと持ち上げたところ、底の一部の板が抜けそうになっていました。鉄筋コンクリートのビルもなぎ倒した津波の中、どうして茶箱が壊れたり、ふたが外れてしまわなかったのか不思議でなりません。担当者の方とも、この古文書が残ったのは奇跡としかいいようがないという意見で一致しました。

 
 事務局で状態を確認する
 しかし、なによりも強調したいのは、今回の古文書が、自宅の流出、集落の壊滅という過酷な状況の中にある地元の住民の方から届けられたという事です。自らの生活の立て直しさえ困難な状況の中、自らの所蔵品ではないにもかかわらず、見つかった古文書資料の価値に心を留め、適切な対応をしてくださったということには、正直感動を禁じ得ません。地域の人々によって命をつなぎ止められた古文書史料の保全に関われることは大変な誇りであるとともに、この史料を「千年後」まで伝えていくため、全力を尽くさなければならないという責任の重さも強く感じました。

 町の担当者の方々は、高台や島にある資料は無事なので、避難者対応の合間を見ながら、できるだけ早く自分たちの手で状況を確認し対応したいということでした。本法人としてもこのような思いに応え、引き続き女川町での保全活動に協力していくことにしております。




123号(2011年5月18日)

宮城歴史資料保全ネットワークの文化財レスキューに参加して

                                  京都造形芸術大学 大林 賢太郎

 宮城歴史資料保全ネットワークの活動は時折発信されるニュースレターで知っていました。C家の書画の修復についての呼びかけに対して、専門家として処置の緊急性があるかどうかを調査する事を申し出ました。レンタカーで現地へ行く手配を進めていると、平川先生からそのお宅の近くでレスキューの申し出が1件あったので、そちらにも対応して欲しい旨の連絡がありました。どうせ車で行くのならとお引き受けし、レンタカーをバンタイプのものに変更しました。

■5月6日

 ANAの始発便(大阪7時15分発)で仙台入りしました。空港近くではまだ信号が復旧しておらず、警視庁の警官が交通整理をしていましたが、しばらく行くと信号も交通も普段通りに見えました。仙台駅でレンタカーを借りて宮城歴史資料保全ネットワークの事務局に立ち寄ってレスキュー用の資材を受け取り11時過ぎに出発しました。
 
 津波で水損したS家文書
(金野聡子氏提供)

●S家文化財レスキュー
 現地在住の紙本修復家金野聡子氏が既に整理梱包を進めてくださっていたので、到着後は所有者の方に確認していただきながら箱に番号を付けていきました。段ボール箱・木箱等合わせて16箱(大船渡市の地元近代資料、太平洋セメントや染色などの関係資料)を箱詰めし、バンに積み込みました。

●C家コンディション調査
 襖は以前に見せていただいた写真のとおりの状態でした。しかし、その場所を触ってみた瞬間、状況は一変しました。まだ濡れていたのです。週明けからは気温が上昇するとのことでもあり、処置を急がなければと考えるものの、ここで乾燥処置をしたものか、どこか近隣まで運んで処置するべきか。残念ながら結論は出ませんでした。仙台に帰って相談の上で再度連絡をすると言うことでその日は引き上げました。

■5月7日

●宮城歴史資料ネットワークでS家資料の応急処置
 ボランティアに集まってもらって作業する日だったのですが、急遽、昨晩移送したS家資料の開梱、泥落とし、乾燥処置を行いました。現地では開けられなかった家紋入りの木箱の中には江戸期の古文書が整理された状態で納められていました。(この日の作業は宮城資料ネット・ニュース120号に掲載されています)
 こうした作業と並行して平川先生とも相談し、他にもいくらか問い合わせてみた結果、C家の現在乾いていない襖は緊急の処置を要するが現地や近隣での処置は難しいと判断しました。襖の本紙だけを京都に移送して洗浄乾燥処置をした後に返送して、建物修復の際に貼り込んでもらうことにしました。屏風に関しては画面側が既に乾燥しており、剥落止め処置やさらなる洗浄処置が必要ではありますが、襖に比べると緊急性が低いと判断し、移送は次の機会としました。

■5月8日

●C家文化財レスキュー
 
 墨書を襖から切り取る
(撮影:芳賀満)

 東北大学の芳賀満氏が同道し、仙台からバンで大船渡市へ向かいました。作業に必要な養生紙は東京のNPO文化財保存支援機構から提供され八木三香氏に現地に届けてもらいました。本日も現地で金野氏がお手伝いくださり、午後から襖を取り外す作業を行いました。襖自体は鴨居が落ちており、取り外せませんでしたので、本紙部分を切り取って浮けから外すことにしました。8枚全てを取り外し大きく巻いて梱包して輸送業者を使って京都へ発送しました。(翌日、京都で受け取り、処置を開始するまでカビ等が発生しないように低温保存で保管しています。)

 今回一番驚いたのは、塩水をかぶった紙資料は乾きにくいと言うことです。既に震災から2ヶ月が経っていますが、未だに緊急処置の対象のものが存在するということです。塩水をかぶったことによってカビは生えにくいと言われていますが、実際にはひどいものもそれなりにあります。

 宮城ネットの方々も被災者でありながらの活動で、人的にも時間的にも余裕がないように思います。既に山形の東北芸術工科大学での処置などは行われていますが、今後も続く事は確実ですから、もっと各地に分散しての処置協力が欠かせません。今回の S家、C家資料は関西へ移送しての処置の手始めとなりました。

 文化財レスキュー事業は被災文化財を安全な場所(余震等でさらなる被害を受けない、盗難等の被害に遭わない)に移動保管する事業です。処置も基本的には移動、保管するために必要なものに限られます。その後の処置や修理はどちらかというと復興事業に属すとされますが、その方法や費用等については具体的には何も決まっていません。過去の復興事業でもそういった修復が行われた例はかなり稀で、特に未指定品の書画ではあまり聞きません。今後はそういった事業について考えていくことも必要であると感じます。この先の予定が決まらないとここで行う応急処置もどこまでにするかも決めにくいという問題があります。

(追記)
 岩手県大船渡市の水損資料レスキューのレポートです。大林さんは仙台から往復8時間かかる現地まで二往復され、水損資料の現地での応急処置と搬出をお願いしました。あわせて、5月7・8日に実施された応急処置作業でもご指導いただきました。この場を借りて御礼申し上げます。(事務局・佐藤大介)





122号(2011年5月17日)

建築チーム 岩沼市・石巻市での古建築調査

 宮城資料ネットで建築を担当させていただいている佐藤敏宏です。5月7日と8日の活動内容を報告させていただきます。

 両日は金沢より古建築の改修や保全を生業としている方々に再び支援していただきまして、岩沼市内に在る古建築の実測を行いました。前回も来ていただいた橋本浩司さんと、若い2人の伝統建築士である野田直希さん、吉田健二さんでした。三名は6日深夜に金沢を出発し、事務局のある東北大学川内キャンパスに7日午前8時半に到着されました。事務局で簡単な打ち合わせを行った後、休息もそこそこに一同は岩沼市に向かいました。

 現地に到着すると、御当主からはすでに主屋の建築調査が実施され、平面図が作成済みであることを知らされました。そこで、今回はイショウグラと呼ばれる土蔵の詳細な実測に収集することにしました。この土蔵は、前回4月14日の活動(メールニュース111・112号を参照)で、建築チームにより応急処置のブルーシートを貼り付けたものです。測量では吉田、野田が内部を、佐藤と橋本が外部を実測することにしました。昼食の時間を含めおおよそ8時間で寸法を採取し、野帳に記すことができました。測量の様子と感想を聞き取り、動画をつくり公開しましたので参照ください。

 実測後、詳細な図面をかき上げなければ測量の意義は発生しません。引き続き精密な図面を書くよう指示を出しました。

 今回測量したイショウグラが仮に解体されたとしても、詳細なデータがあれば再建は可能です。一方、人々と生活や経済とともに建築が在るのが理ですから、実存し続けたとしてもイショウグラの機能を再発明できなければイショウグラ建築そのものは社会から消えていくことになるのは理の当然です。それゆえ、歴史的記述としての実測データが必要であることは理解いただけると思っています。

 今回測量したイショウグラのデータを、人々の関係性を豊かにするために活用し、死蔵されないよう働きかけたいと思います。
 
 
 測量を基に作られた図面
 
 2日間の調査を終えて

 岩沼市で二日間調査を行う予定だったのが一日で終了しましたので、7日は石巻の本間さんを訪ね、4月12日に調査した土蔵周辺のその後を見たり、話を聞き取りつつ挨拶に向かうことにしました。偶然にも本間さんが現場にいらっしゃいましたので、修覆の進み具合や、集めた古い瓦の話などを聞くことができました。解体され瓦礫になった若宮丸の姿を含め、周辺の様子を動画にまとめ公開しましたのでご参照ください。

その後は、津波による被災が甚大激烈な女川の一部の様子を見まわりました。こちらも動画を作りましたのでご参照ください。女川の惨状を写真などに記録したあと、石巻市にある古民家の測量を行いました。

 この古民家については、7日の夜に事務局に調査依頼があったもので、今回の震災で破損したとのことです。事前の情報では、所蔵者の方は家を今後どうされるか迷っておられるとのことでしたが、お話をおうかがいすると、ご家族全員が母屋に愛着があるということがわかりました。そこで調査を行い、完全な復元ではなくとも様々な修理方法がある旨をお伝えしたところ、少しホッとされた様子でした。こちらについては、今後所蔵者の方のご意向に沿って、引き続きご協力することになりました。

 調査日程の変更などありましたが、終わりよければ全てよしの実測部隊の2日間となりました。 みなさん暖かなご支援ありがとうございました。

(追記)
 宮城資料ネット建築チームによる被災調査の報告です。なおこれに先立つ4月30日には気仙沼市唐桑、5月1日には岩手県大船渡市の旧家で土蔵の実測調査と応急処置を行っています。(佐藤大介)


*参考 5月7日・8日動画(外部リンク・佐藤敏宏撮影)
 ・岩沼での被災建築測量 http://www.youtube.com/satoutosihiro#p/u/6/q4K3fYAupjE
 ・本間家土蔵の周辺    http://www.youtube.com/satoutosihiro#p/u/9/KeHzWDHowsY
 ・女川町の状況       http://www.youtube.com/satoutosihiro#p/u/0/Ge--8YcsyH0




121号(2011年5月15日)

東日本大震災
仙台市博物館・市史編さん室の保全活動

 宮城資料ネット会員の栗原伸一郎です。私が勤務する仙台市博物館では、震災以来、宮城資料ネットと連携しながら歴史資料の保全活動に取り組んでいます。博物館市史編さん室の一員である私もこの保全活動に携わることとなりましたので、これまでの活動状況についてご報告いたします。

 これまで仙台市博物館では市史編さん事業などを通して、仙台市内外の旧家・寺社・施設が所蔵する歴史資料を数多く調査してきました。震災直後から仙台市博物館では、これまでの調査先や『秋保町史』『宮城町誌』などといった自治体史に掲載された資料所蔵者をリストアップし、保全活動に備えてきました。4月20日からは、仙台市内の各地域(城下町周辺部の旧村地域)を巡回し、これまでの調査先と未調査ながら資料所蔵が予想される旧家を訪問して、歴史資料の被災状況を調査しています。

 巡回調査では、博物館職員など3・4人が旧家を訪問し、歴史資料の所蔵の有無や保管状況などについて聞き取りを実施するとともに、場合によっては家屋や資料の撮影を行っています。その際、訪問先では、資料保管を呼びかけるチラシや、宮城資料ネットが石巻で実施した保全活動を伝える新聞記事のコピーをお渡しし、地域の歴史遺産を未来に伝えていくことの重要性を説明しています。5月6日までに73箇所の旧家や寺社を訪問しました。

 今回の巡回調査では、通常の調査と異なり、訪問先に対して事前に電話や書面で連絡をしませんでした。今まで調査したことのない所蔵者の場合、こちらが念頭に置く「文化財」や「歴史資料」が何を指しているのか分からないことが多いでしょうから、実際にお会いして説明しなければ、なかなか活動の趣旨を理解してもらえません。また、連絡をした際に先方が訪問自体を拒否すれば、その後の展開が絶たれてしまいます。こうした理由から事前に連絡せずに訪問しましたが、幸い多くの方々に好意的に対応していただきました。お忙しいなか、お話を聞かせていただいた方々に、この場を借りて深く感謝を申し上げます。

 太平洋から奥羽山脈にまで及ぶ広大な仙台市では、津波被害を受けた沿岸部とそれ以外の地域では歴史資料をめぐる状況が大きく異なります。沿岸部の田園地帯にあり、一階が浸水するなど大きな被害を受けた旧家では、資料か何かも分からず、泥を被ったものを棄てているという話を伺いました。また、その近隣の旧家では、ご当主から歴史資料を所蔵しているかのような発言がありましたが、多くを語ってはいただけませんでした。こうした津波の後片付けに追われているお宅では、周囲の居久根に車が押し流されているような光景が広がり、我々も深くお尋ねすることが憚られるような状況でした。

 一方、津波被害がなかった地域では、地震による保管場所の損壊などによって歴史資料を廃棄したという事例が少数ながら確認されました。未調査宅のなかにも、大きな被害を受けている古い家屋や蔵が見受けられることから、今後も今回の地震を契機とした資料廃棄の可能性が想定されます。また、家屋の建て替えや代替わりがあったという旧家では、地震被害とは関わりなく、資料の所在が不明となっている場合もありました。予想はしていましたが、巡回調査を通じて、仙台市内にある歴史資料も非常時・平常時それぞれに発生する事情のために、危機的状況にあることが確認されました。

 今回の訪問先のうち約3分の1は、これまで仙台市博物館で何らかの調査をしています。何十軒というお宅を訪問して強く感じたのは、そうしたお宅では、普段から歴史資料を大切に保管されている方が多いということです。以前に古文書を調査させていただいたある方は、地震によって母屋が大きな被害を受けたため、別の場所で生活せざるを得なくなっていました。しかし、そうした困難な状況であるにも関わらず、古文書を母屋から被害の少なかった蔵に移して保管しておられました。そして、母屋の中から新たに発見された近世・近現代の資料についても、我々がその価値を説明すると、大切に保管したいと話して下さいました。自分が所蔵する歴史資料の内容や価値を認識された方は、今回のような大災害に際しても、その保存に心を配って下さいます。言われ尽くされたことですが、平常時の地道な調査・保全活動が、地域の貴重な歴史遺産・文化遺産を守るための近道であることを実感しました。

 また、今回初めて訪問したお宅でも、新たに歴史資料の存在が確認され、その保管を意識していただける場合も数多くありました。近世期に肝入を務めた旧家では、ご当主は所蔵されている近世文書から家の由緒が分かるかもしれないと思いつつも、自分では解読できないとの悩みをお持ちでした。そのため、博物館で資料整理ができる旨をお伝えすると、大変興味を持たれたご様子でした。また、村役人を務めたと思われる旧家では、今回訪問したことで、所蔵されている屏風や古文書について調査してほしいとの思いを強くされたようでした。

 市内を巡回するなかでは、思わぬ偶然もありました。とある旧家と間違えて訪問してしまったお宅が、明治期に村長を輩出した家だったのです。ご当主は地域の民具の保全に尽力された方で、自宅にも文書資料や道具などが残っているとのことでした。また、調査中に駐車場をお借りしたお店の方と話したところ、そこは大正期に村長を輩出した家で、小学校建設に関わる近代資料をお持ちであるとの情報を得ることができました。こうした方々には、改めて資料調査のお願いをしたいと考えています。

 ただ、巡回調査が全て上手くいったわけではありません。事前に連絡をしていませんので、不在であったお宅もありましたし、在宅中であっても突然の訪問に警戒感や不快感を示されたお宅もありました。家屋を新しくされたあるお宅では、最後まで玄関のドアを開けていただけなかったためインターホン越しでの会話となり、古い門構えが印象的な地域有数の旧家では、「ウチは古い家ではない」と門前払いされてしまいました。また、建物に被害を受けた旧家の方から聞き取りを行い、許可をいただいて家屋などの撮影を始めたところ、帰宅された別の方から調査を許可していないと咎められ、調査が継続できなかったこともありました。

 所蔵資料に対する意識は人それぞれですから、訪問した際に応対して下さる方―ご当主か否か、年配の方か否か、など―によって、不意の訪問者である我々が教えていただける内容も変わってきます。また、平常時でも自家の所蔵品を他人に語ることや写真に撮られることに抵抗感をお持ちの方は、自らが被災者となっている災害時では、そうした思いを更に強くされているでしょう。震災直後の落ち着かない時期では、訪問しても迷惑がられる可能性が高いですが、そうかと言って時間が経ってしまうと、歴史資料が廃棄されている可能性が高くなります。巡回調査を通じて、歴史資料の保存を呼びかけるタイミングや具体的な方法など、改めて災害時における調査の難しさを痛感することにもなりました。

 しかし、失敗を恐れて待っていたのでは、消滅の危機にある歴史資料を救い出すことはできません。こうした巡回調査は今後も継続し、被災資料の情報収集に努めていきたいと思います。今後の状況によっては、レスキュー活動を実施することもあるかと思います。その際は、宮城資料ネット会員の皆様にもご協力をいただきたく、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 なお、この調査活動には、複数名の宮城資料ネット会員(『仙台市史』執筆担当者や仙台市博物館職員)が参加しました。




120号(2011年5月14日)

水損資料の保全作業に参加して

               宮城資料ネット会員 中川 学

 「文書の入った箱のなかに、小魚の死骸があった」。資料保全の作業中に、事務局スタッフの発した言葉が今でも耳に残っている。これはまさに資料が保存された状態のまま、津波の被害を受けたことを示していると思った。
     
   文書箱から見つかった小魚  

 2011年5月7・8日、私は延べ17名のボランティアの一員として、資料ネットの仮事務局が置かれている東北大学川内南キャンパス・文科系総合研究棟にて、資料保全の作業に参加した。以下ではその概要と所感について記したい。

 今回の保全対象は、岩手県大船渡市赤崎町のS家の資料群である。これは前日に資料ネット事務局に運ばれたもので、木箱とダンボールあわせて十数箱という量であった。その多くは海水に浸り、泥にまみれるという津波のダメージを受けており、被害から1ヶ月以上たっていることもあって、カビも発生し始めていた。

 1日目には、車から資料を研究棟1階入り口前のブルーシートの上に運び出し、ナンバリングをした箱ごとにグループを作って作業を開始した。まず、箱から資料を取り出し、大きく2つに分類した。文書の固着がひどいものはトレーに入れた水に軽く浸して揺すり、表面の泥を落としたうえで、カビ防止のエタノールを噴霧した。それらの資料は真空凍結乾燥処理のため、東京・奈良等の機関へ運ばれることとなった。固着がひどくないものについては、丁ごとに泥をはけで落とし、エタノールを噴霧したうえでキッチンペーパーをはさみ、乾燥させるという措置をとった。

       
 泥に浸かった木箱から資料を出す  資料を広げて乾燥する  作業風景(5月8日)  資料の泥を払う

 2日目も継続して作業を進め、乾燥した資料は箱ごとに仮番号を付けて、中性紙封筒に収められた。2日間ですべての資料保全作業を完了することはできなかったが、水損資料の応急措置という目的はほぼ達成されたと思われた。
 
 今回の保全作業でもっとも印象に残ったのは、資料の受けたダメージの深刻さである。私の担当した木箱は泥のなかに資料が埋まっており、竹べらを使って掘り出しても、湿った紙の固まりという状態であった。その当初は、これらを本当に救えるのかという悲観的思いがあったのは事実である。しかし、ダメージの大きい資料に関しては、奈良国立文化財研究所の真空凍結乾燥処理により、早急に保全が実施されることとなった。このような大規模災害に直面して、資料保全のバックアップ体制が諸機関の協力によって構築されたことは、非常に画期的であると感じた。

 私個人にとっては、他のボランティアとともに、水損資料の保全方法を学び、保全作業を経験できたことも非常に有益だった。これからも微力ではあるが、資料の保全作業に取りくんでいきたいと思う。




119号(2011年5月10日)

※募集・活動は終了しました。

石巻文化センター資料レスキューボランティア急募

 宮城資料ネットでは、宮城県文化財課の依頼により。東日本大震災で被災した石巻文化センター(石巻市)所蔵資料のレスキューに参加することになりました。

 つきましては、5月15日(日)の現地における作業への参加者を、10名程度募集いたします。

 申込者が多数の場合には先着順となりますのでご了解ください。なお、遠方からご参加される場合には、宿泊などはご自身でご手配ください。また交通費・宿泊費は、参加者負担となります。

■作業の内容
・石巻市文化センター所蔵資料の搬出作業
 *現地での作業は、レスキュー事業事務局の指示に従って行います。

■募集要項
・募集人員:10人程度
・集合場所:午前8時 仙台市博物館駐車場

*公共交通機関 仙台市営バス 仙台駅前9番乗り場
・「宮教大・青葉台行」ないし「青葉通経由動物公園循環」、「博物館国際センター前」下車 徒歩3分

http://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/guide/access/index.html

<注意事項>
 石巻文化センターは津波で1階に泥水が入りました。また、センター自体の躯体は無事ですが、周辺はがれきの山です。泥のかき出しは終わり、がれきの撤去も始まっておりますが、厳しい環境にあります。下記の点にご留意ください。

 1.ご自身で傷害保険かボランティア保険等にご加入ください。
 2.ヘルメットをお持ちの方は持参してください。お持ちでない方は事務局で用意します。
 3.できるだけ安全靴を着用願います。
 4.汚れてもよい服装でおいでください。
 5.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
 6.昼食と飲み物は持参して下さい。

■締切 5月12日 木曜日 正午まで

■申込書
-----------------------------------
氏名:
所属:
メールアドレス:
住所:
電話番号:
------------------------------------
*上記の情報は、今回のレスキュー募集および今後の活動報告配信に使用します。




118号(2011年5月5日)

東日本大震災 石巻市門脇・本間家の被災土蔵をめぐって


                                       斎藤善之(宮城資料ネット副理事長)

(*本紙面では、本間家をH家と表記してまいりましたが、ご当主のご了解を得て実名表記とさせていただきます。)

 
 門脇地区の惨状と本間家の土蔵 4月7日・斎藤秀一氏撮影
 
 石巻市門脇地区に残された1棟の土蔵。押し寄せた津波に耐え、瓦礫に埋もれるようして残ったこの土蔵の2階には多数の歴史資料が無傷で残されていました。

 私たちはこの度の大震災のなか奇蹟的に残ったこの土蔵を、未曾有の大震災の記憶を後世に伝えるためにも歴史遺産として残せないだろうかと考え、その保全に向けた活動を始めています。以下では、この土蔵をめぐる震災前後の経緯を改めてふりかえり、その存在の意義について考えます。

■大震災前の本間家

 本間家は、江戸時代には石巻を代表する千石船の船主として活躍した武山家の流れを継承する家です。武山家は明治時代になると廻船業から撤退しますが、手広く金融業を営むかたわら、三陸商社や米商会社、石巻商業講習社などの設立に関わるなど、当地の産業の近代化に尽力しました。あわせて戸長、町会議員、郡会議員、石巻町長などの公職も歴任しています。

 明治18(1885)年頃、同地の勝又家が所持していた味噌醤油醸造の設備を買い取り、味噌醤油醸造業にも乗り出しました。これは順調に発展し、その後明治30(1897)年頃には、後町に新たに醸造工場を建設しました。これが現在の本間家の敷地となっています。昭和初期に描かれた絵図には当時の同家の繁栄ぶりが描かれています。

 しかしながら昭和元年、武山家の当主の死去によって武山家は断絶し、当主の娘(四女)の嫁ぎ先の本間家が武山家の醸造工場と土地家屋を継承することになりました。その後、本間家による醸造業経営は戦後まで継続していましたが、昭和45(1970)年に廃業となりました。その後もこの敷地と主要建物は残され、本間家の住居となっていましたが、今回の大震災によって、赤丸で囲んだ土蔵以外の建物はすべて倒壊流失してしまいました。

 
 武山商店・本間家の醸造所の景観(昭和初年) 
赤丸で囲んだのは今回の大震災後、唯一残った土蔵
 
 

 なお斎藤は1997年夏頃から本間家との関係をもつようになり、今回残った土蔵の2階に保存されていた武山家の古文書(江戸時代の廻船関係文書)の解読をおこない、それをとりまとめた『石巻湊門脇・武山六右衛門家文書』を2006年に刊行しています。

また絵図では一番奥の山沿いに見える大きな倉庫は、かつての醸造蔵でしたが、石巻千石船の会が中心となって平成9年に製作しされた復元模型船(千石船)の若宮丸の保管庫に使われておりました。

■3月11日大震災発生と本間家

 今回の大震災の津波により、見渡す限りの瓦礫の原となってしまった石巻市門脇地区の様子は、当初は繰り返し流された報道の映像でその様子を窺い知るだけであり、その後、本会の事務局が震災後の衛星写真の分析から沿岸地域の被災状況の把握に勤めましたが、それによると門脇の本間家の一帯は壊滅しており、また本間家の御家族の安否も分かりませんでした。

 その後3月20日頃になって、ご当主の携帯の通話が初めて繋がり、御家族のご無事が確認されました。津波の時には裏山(日和山)の斜面に逃れ、その後は山際にあるテニスコートの事務所小屋に寝泊まりされているとのことでした。家屋や土蔵は全て倒壊流失し、古文書なども消滅したということでした。その数日後、再び通話した際には、古文書を入れていた土蔵だけが瓦礫のなかから無事な姿を現したこと、土蔵の1階部分は天井付近まで冠水したが、2階部分は無事で、古文書なども残っているとの情報がもたらされました。この時点で歴史資料の保全の必要性を認識しましたが、仙台でもガソリンなどが入手困難で、しばらくはレスキュー活動に取りかかることはできませんでした。

■4月上旬の現地調査と資料保全

 3月末頃になってようやく仙台でもガソリンが入手できるようになり、まず4月4日、本会の平川理事長と事務局の4名が現地を訪れ、本間家を含む門脇地区の深刻な被災状況を把握しました(ネットニュース第100号を参照)。それをうけて4月7日には、ネットの会員ら11人によって本間家の所蔵資料の保全活動(レスキュー)が実施されました(ネットニュース第103号を参照)。またその模様は河北新報(4月17日版)の紙面でも報道されております。
 
 土蔵の様子(4月12日の調査時)

 こうして本間家の土蔵の歴史資料はとりあえず保全できましたが、土蔵については、ご当主によれば、破損が建物構造に及んでいるおそれもあり、取り壊さざるをえないであろうとのことでした。

 しかしながらこれだけ甚大な被害を被った門脇地区にあって、瓦礫の中にポツンと佇む土蔵の光景は余りにも象徴的なものがあり、奇蹟的に残った120年前の歴史の証人でもある土蔵を、この度の震災を後世に伝えるためにも、何とかして保存し後世に伝えることはできないものかということが、平川理事長から提起され、私たちの間で話し合われました。なお他にも同様の物件があることから、ともかく建築の専門家の診断が必要であろうとのことで、4月11日には平川理事長から福島市の佐藤敏宏氏(一級建築士)に対して、被災建築物の調査と修復への助言をするアドバイザー就任の要請がなされ、以後の私たちの活動において佐藤氏の全面的なご協力が得られることになりました。

■4月12日 建築チームの現地調査

 佐藤敏宏氏をリーダーとして、金沢から橋本浩司氏(古建築修復の専門家)ならびに中村彩氏(造園家)、京都から満田衛資氏(建築構造の専門家)が当地に駆けつけてくださり、急ごしらえながら意欲的な建築調査チームが結成されました。そこに私たちが同行する形で、4月12日から3日間にわたる建築被害調査が実施されました。その内容と成果についてはネット・ニュースの第111号(佐藤敏宏氏の寄稿)、および第112号(橋本浩司氏の寄稿)に的確に記されておりますのでご参照ください。

 4月12日に実施された本間家の土蔵の被害調査の結果によれば、幸いにも柱と梁の軸組み部分(基本構造)には損傷はみられず、瓦および垂木と母屋に部分的破損がみられるが補修は十分可能であること、さらに長期的には剥落した漆喰・海鼠壁の補修が必要、といったアドバイスが示されました。

 この調査チームの所見は、当日現場でご当主に口頭で伝えられ、これをふまえご当主は、とりあえず現在進められている自衛隊による瓦礫撤去にあわせての土蔵の取り壊しは見合わせたい、とのご意向が示されました。これにより目前に迫った土蔵取り壊しはひとまず回避されることになりました。

■4月17日(その1) 土蔵の現況

 その後、建築物調査チームは短期間のうちに多数の被災物件の調査と応急的補修をこなしてくれましたが、本間家の土蔵についての調査報告書も作成してくれましたので、これを持参するとともに、現地の最新の状況を確認するため、斎藤が4月17日、現地を再訪しました。

 門脇地区を埋め尽くす膨大な瓦礫は、まだ至る所に残っていましたが、本間家の土蔵の周りの瓦礫は、この数日の間にも取り片付けが進んでいることが窺えました。

 私の訪問に対し、ご当主は4月7日の建築家のアドバイスもあり、その後、現場で瓦礫撤去にあたる自衛隊チームに「とりあえず土蔵は撤去しない」という考えを示し、土蔵だけは撤去から除外してもらったとのとのことでした。こうして周辺の瓦礫が取りのけられたなか、土蔵がさらに鮮明にその姿を現しておりました。

 土蔵を見ててもらうと、入ると驚いたことに、浸水した土蔵の床板が上げられ、床下に入り込んだ汚泥(とパルプ屑。これは近くの製紙工場から流出したとみられる)がきれいに掻き出され、土蔵の床下に風を入れて乾燥させているところでした。被災され大変不便な生活をされているご当主と、仙台から駆けつけられた弟さんとでこの作業をされたとのことで、一度は土蔵を取り壊すことを考えたというご当主自らこの作業にあたられたことに、ご当主の土蔵への愛着を改めて窺い知らされ感銘を受けました。それとともに、建築チームの診断がご当主の土蔵への思いを甦らせた、この日の作業に繋がったのではないかとも感じました。

   
 土蔵の内部(入口付近) 床が上げられている  (1階奥) 4月17日時点

 それとともにこの土蔵を残すためには、破損部分の応急補修のための手立て(作業従事者と経費の手当て)をできるだけ早く講じていく必要性があることも強く感じさせられました。

■4月17日(その2) 倉庫の解体と若宮丸の廃棄

 いっぽうで本間家のなかで偉容を誇っていた大型倉庫(旧醸造蔵)については、津波によって大きく損壊し、そこにあった若宮丸も瓦礫に埋もれ破損していました。
   
 大型倉庫の破損状況(4月7日時点)  内部の若宮丸の状況(同日)

 4月12日の建築診断の際には、建築チームによって崩れた倉庫から若宮丸を搬出が可能かどうかが検討されましたが、倉庫の状態が倒壊寸前であること、そこから若宮丸を引き出すことは人力だけでは到底無理であるなどのことから、搬出は断念されました。
 
 瓦礫の上に若宮丸の壊れた船体が(4月17日)

 その後、4月17日に斎藤が訪問した時点では、状況は一挙に変動してしまいました。自衛隊による瓦礫撤去は進展し、まず大型倉庫は解体されてすでに形がなく、その廃材がうずたかく積み上げられた瓦礫の山の上に、壊れた若宮丸の壊れた船体が積み上げられているのが確認されました。ご当主によると、大型倉庫の解体に際して、若宮丸を引き出すことができないか、瓦礫撤去の現場担当者と検討してみたとのことですが、倉庫は解体が始まると簡単に崩壊してしまい、若宮丸はそのなかで潰されてしまったとのことで、結局引き出すことはできなかったということでした。

 石巻市民の募金によって作られ、市民祭りの際には街中に引き出されて引き回され、市民に愛されてきた若宮丸をレスキューすることはできませんでした。瓦礫の山の上のその無惨な姿は、今回の東日本大震災の悲惨さをまさに象徴するものと思われました。

■石巻市門脇の震災被害を記憶するために  本間家の震災土蔵の保存にご支援を

 本間家の土蔵ならびに若宮丸については、以上のような経緯で、なお現在も事態は進行中です。土蔵の古文書はいちおう保全されましたが、土蔵じたいの保全に関しては、私たちの思いに応えてくださる形で、ご当主も当初の解体から保全へと方針を転換してくださるに至っておりますが、これが保全できるかどうかは、なお未確定であるといわざるを得ません。特に屋根付近の破損部分から雨水が建物構造に浸透するおそれがあり、その補修が緊急に必要であること、さらには外壁の漆喰壁・海鼠壁についてもなるべく早い補修が必要とされています。

 しかしながらご当主からは、土蔵を除く自宅が全壊し、事業所の小屋に寝泊まりする状況にあって、補修のための費用を負担することは難しいとの事情にあることも伝えられております。

 これは被災地の所蔵者に共通する事情でもあり、歴史資料のみならず建物など文化財の保全のための補修費用をどのように手当したらよいのかは、私たちの今後の活動にとっても極めて重要な課題になることは明らかです。この対策については本ネットでもすでに検討を始めていますが、ボランティアベースで活動するNPO法人たる本ネットにおいては、これに対応するには限界があります。なんとか広く全国的で組織的な支援が求められていることを訴えたいと思います。

 未曾有の震災の被害を後世に長く伝えるために
 本間家の被災土蔵の保全に向けて、皆さまのご支援をお願いいたします!。




117号(2011年5月4日)

ボランティアの急募です。

 5月7日(土)・8日(日)にボランティアを募集します。申込者が多数の場合には先着順となりますのでご了解ください。なお、遠方からご参加される場合には、宿泊などはご自身でご手配ください。また交通費・宿泊費は、参加者負担となります。

■作業の内容

 現在、事務局に緊急搬出された古文書類が一時的に保管されています。水損した資料も含まれており、これらの応急処置および整理作業を実施いたします。

■募集要項

○募集人員:10人程度
○作業時間:9時〜5時
○作業場所:東北大学川内南キャンパス 文科系総合研究棟11階 中会議室1・2

*公共交通機関 仙台市営バス 仙台駅前9番乗り場
「宮教大・青葉台行」ないし「青葉通経由動物公園循環」          
「東北大学入試センター前」下車  徒歩3分

http://www.tohoku.ac.jp/japanese/profile/about/10/about1003/index.html

○その他:昼食代を支給いたします。

<注意事項>
 1.汚れてもよい服装でおいでください。
 2.マスクと作業用手袋(軍手等)を持参ください。
 3.昼食と飲み物は持参して下さい。

■締切

 5月6日 正午まで

■申込書

-----------------------------------
氏名:
所属:
住所:
電話番号:
メールアドレス: 
参加希望日(○を付けてください)
7日(土):
8日(日):
------------------------------------



116号(2011年5月3日)

東日本大震災・桃生町での歴史資料保全活動

 宮城資料ネット事務局の天野真志です。

 4月27日(水)、石巻市桃生町で歴史資料保全活動を実施しました。対象となったS家は、江戸時代に藩の礼法に携わる旧家でしたが、今回の地震で土蔵が倒壊し、資料の保管が困難となったため、同市文化財保護委員の方からの要請をうけ、事務局が資料の搬出作業をおこないました。
 
 資料の搬出作業

 事務局が現地に赴いた際、すでに土蔵は解体されていました。ただ、古い物を安易に捨てないよう、文化財保護委員の方たちから呼びかけられていたこともあり、蔵のなかにあった資料は、雨に濡れない場所へ一時避難されておりました。江戸時代の礼法や明治期以降の土地所有関係の資料、さらに代々受け継いできた道具類などが多数残されており、一時保管先として東北歴史博物館へ移送しました。また、水損資料については事務局に運び込み、資料ネット会員の協力を得て応急処置を施しました。今回、すべての資料を搬出できなかったため、後日改めて残りの資料を搬出する予定です。

 土蔵の解体に際して、今回のお宅では重機ではなく手作業での解体をおこなったそうです。わざわざ手のかかる解体方法をとったのは、資料に対するご当主の想いによるものでした。
 お宅に残された資料は、古文書類のみならず、江戸時代以来同家で集められた食器類や落雁の型など、この地域の歴史を今に伝える歴史資料でした。ご当主によると、今後これらの資料を残すにあたり、単に古いものを残すのではなく、「地域の思い出」として、地域の方々とその価値を共有しながら残していきたいとおっしゃっていました。
 
 水損資料の応急処置

 歴史の記憶が風化すると、お宅に残された歴史資料も忘れ去られてしまう。それにともない、資料に対する関心も薄れ、せっかく残された資料もやがて無くなってしまう。こうした事態を防ぐために、まずは古いものを残し、その後にそれらを地域で共有することができないものか、というご当主の想いが、多くの歴史資料の保全に繋がったといえます。こうした所蔵者の想いに少しでも応えられるよう、今後も活動を続けていきたいと思いますので、これからもご支援・ご協力よろしくお願いいたします。






115号(2011年5月1日)

水損資料応急処置

           宮城資料ネット理事 堀 裕

 4月25日(月)、宮城県農業高校の水損資料応急処置と搬出のための活動を行いました。当日は、台風被害の水損資料保全活動の経験がある歴史資料ネットワーク(神戸)のメンバー(4名)による水損資料の保全方法の指導のもと、山形資料ネットワーク(6名)と宮城資料ネットワーク(8名)の参加者によって活動が行われました。

 宮城県農業高等学校は、海岸から約2キロの距離に立地し、津波被害によって校舎・校庭に大きな被害がありました。再建に向けた努力が続けられていますが、現在も津波被害の跡が大きく残ったままです。このような活動場所のため、安全を考え、本格的な処置は東北芸術工科大学で行うこととし、この日は簡単な応急処置と搬出を行いました。

     
 倉庫に乗り上げた乗用車  職員が応急処置した蔵書  汚れを刷毛で落とす

 明治期創立の当学校の資料は、『農業全書』など農業関係を中心に、語学や文学に関する和装・洋装の本が多数あって、搬出時のコンテナ約50箱分にもなるほどです。

 活動の行われた建物の1階に、対象となる資料の書庫があったため、資料は津波の被害を受けました。資料の一部は、先に高校の先生の手によって2階に搬出され、殺菌のためのエタノール噴霧の後、床いっぱいに積まれていました。本には泥がべったり付いただけでなく、一部に水損によると思われるカビがあり、和装本は数冊が接着して離れないものも多くありました。その場の作業は、本を傷めないようにハケや竹串を用い、表面の泥を除いた上で、できるだけ撮影のため題名(外題・内題)や奥付がわかるように泥を除き、番号を書いた付箋を挟み込みます。目録作成のための撮影も行う予定でしたが、時間の関係で先に搬出を行うこととし、応急処置の済んだ資料はすぐにコンテナに納めました。1階では、書庫の床に散乱していた泥まみれの和書を取り上げ、白カビの拭き取りとエタノール噴霧を行った上、陰干しをしています。これらの資料への対応は、ほぼ一ヶ月後になるとの事でした。

     
 蔵書を搬出する  東北芸工大への搬入  蔵書の仕分け作業

 搬出された東北芸術工科大学では、翌日・翌々日にも、応急処置作業が行われています。

 今回、水損資料が短期間で廃棄される可能性のあることを想像させる一方で、水損資料にも保全の方法があり、その具体的方法の一端を学ぶことになりました。


2011年5月   125号 124号 123号 122号 121号 120号 119号 118号 117号 116号 
          115号
HOME